どんな世界も最後は思いやり

どんな世界も最後は思いやり

はじめに

今日は少し仏教の歴史を振り返ってみたいと思います。

古墳を観光で訪れる人も多いかと思います。日本全国に点在してますし、主要観光地にもなっていますね。古墳の小高い山を登り悠久の時に思いを馳せるのも醍醐味のひとつです。

しかし、古墳というのは少し奇異な雰囲気を感じている敏感な方はいらっしゃいませんか。

中にはまあるい形もあって、どこか愛嬌も感じられる風景は、外見からはとてもお墓には見えません。でも、あれもお墓なんですね。

とある古墳-画像は本文とは無関係です。

庶民の墓地の石製の立方体の上はとても歩けませんが、古墳の山に登るというのも同じような意味です。

古墳の障り

現存する古墳の多くは当時の有力者のものです。

手にした権力がよほど魅力的だったのでしょうか。もはや、骨の欠片さえ残っていないような長い時を過ぎても、この世に何某かの未練が残ることもあるようです。

一般的に霊と呼ばれている残存している意識存在にとって、この世の時間は関係ありません。

わたしが担当ではありませんでしたが、奈良にある古墳での障り(霊障)の事案がありました。

具体的な内容ついては避けますが、古墳といえども中には近隣に少なからず影響を及ぼしていることもあるようです。

古の霊との対面

わたしの寺院のある場所で対面する霊たちは、主に中世1600年前後に生きていた人々です。その頃には仏教は、すでに伝来し人々の生活にも浸透していました。

それでも寺院周辺で戦った武士にとって法華経は逆賊の経文でした。そのために、法華経はお釈迦さまの教えといえども彼らの固執したこころを氷解させるには時間がかかってしまいます。

一方、古墳が多く残された時代といえば、3世紀後半くらいでしょうか。日本に仏教が伝わる数百年前にもなります。古墳時代の人々は仏教など知る由もなく説得の手がかりさえありません。

これは、キリスト教など他宗教の信者や徹底した無宗教者の場合もそうですが、仏の教えが通じない場合もあるのです。

残存霊が無信仰/他宗教

先だっての記事の中で霊の出生を詮索してはならないと言いました。

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他宗教、無宗教の亡者に対応する場合はとにかく思いやりです。

俗にいうお化けというのは、迷い苦しんでいる霊です。その霊に対して、とにかく”あなたの苦しみを取ってあげたい一心である”ことを伝えることが大切なのです。

ちなみに、詮索せずに真摯に思いやりを持って対応すると、霊には観音様や天使あるいはそれに属したものに見えるようです。

おわりに

仏の教えに接することのない相手に対しては、何より人と人こころとこころの対話を心がけることです。やはり人のこころを動かす最後の砦は慈悲心なんですね。

そのことを改めて学んだ古墳での事案でした。

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