はじめに
先だって、yahooのニュースの中にドラマの中で考えさせられた現代の葬式の変化についての印象的な記事がありました。
『らんまん』田邊教授(要潤)の死への大きな疑問 フィクションと真実のはざまにあるもの(堀井憲一郎) – エキスパート – Yahoo!ニュース
ドラマ自体は知りませんが、ドラマにあったような近所を巻き込んだ葬儀がなくなり、最近葬儀を身内だけで済ませることが多くなってきているといった内容の記事でした。それは、核家族化の進行や価値観の変化、またそれに伴って近所との付き合いも希薄になったなどの原因が考えられます。
身内で済ませる自体別に悪いことでもありません。ご近所をはじめ、親せき一同が絡んでくると、費用はかさむし、余計な心労も増えることでしょう。では、どんな問題がそこに潜んでいるのか考えてみましょう。
故郷での出来事
わたしが、実家住まいの頃、隣に元豪農の家がありました。土地を多く所有していて、農業からはとうの昔から手を引いていたようですが、土地の運用だけで贅沢できているほどでした。出家した現在、思い返してみればその家には、持てる財産と引き換えるように、かなり強い因縁があったと思われます。
元豪農の家主も、代々多くの土地を受け継いでいく中で、それを感じていたのでしょう。庭の片隅にはいくつものお地蔵さんが祀られていました。
当時、実家の近隣では、どこから来るのかわかりませんが、念仏を唱えながら白装束をまとった集団が地方を巡っていました。彼らは、元豪農のところにも毎回立ち寄っては、お地蔵さんにお参りし、お茶や菓子の接待を受けていたようです。
一方、その家には近所でも評判の優秀な兄妹がいました。しかし、お地蔵さんの祭祀も虚しく、父母を残して最初に兄が、やがて妹が2人とも若くして亡くなってしまったのです。その葬式には、出席者に振舞うための料理をわたしの母や近所の人々が集まって作っていました。お手伝いしたことで思わぬお礼を頂いた母が、とてもうれしそうだったことを今でも覚えています。
前述のyahooの記事にもあったように、昔の葬式というのはご近所を巻き込み、それこそ町中にその死が知れ渡っていました。このように人の死はわたしも幼い頃から、とても身近な出来事だったのです。
周りから消えていったもの
わたしの幼い頃は田舎でもあったので目に見えない世界を暗示するモニュメント等がそこら中にありました。それは、祠(ほこら)だったり、お地蔵さんだったり、建立者不明の塚であったり、前述したお遍路さんの集団だったり。
また、その頃の葬式は貧富に関係なく近所を巻き込んで行われていました。
このように昭和の中頃までは、死を積極的に考えることはなくても考えざるを得ないようなものを自然に見かけたり、忙しい生活の中にあっても、ふと死や死後について考えさせられるようなきっかけが人間関係に溢れていたように思います。
死を遠ざけていく社会
現代における、死ぬことを恥だと思う傾向
そのため死をできるだけ、隠していくような風潮が蔓延しています。個の時代が進むと自然と死を遠ざけ、死を意識できない世界が広がっていきます。
個の時代では、自分の好みばかりを追い求めていく傾向があります。誰でも、死について、特に自分の死については出来るだけ考えたくはありません。そのため、周りに不快な死を感じるものを無くしていこうとするのは当然のことでしょう。
一方で、死の概念を遠ざけていくことは、生きる意味が希薄化してしまうことであり、同時に不安なこころを増幅させてしまうのです。
死は人にとって避けることのできないこの世の最終到達地点
死の認識を遠ざけたりその機会を積極的になくしていくことで、何か拠り所のない浮遊した感覚に陥っていくのではないでしょうか。
おわりに
死後を意識することのない時代では、死自体をさらに遠い世界へと追いやっていく風潮を助長していきます。そんな社会においては、周りから人の死を感じさるものが消えていくことは、自然の成り行きのようにも思えます。
個の時代、人の死が見えなくなっていくことは、何か大切なことが見落とされていく社会の姿もそこに垣間見えてきます。
死んでいく存在である人の死を覆い隠す世界は、どこか虚構に満ちていて、その広がりゆく現代を、わたしいはとても淋しく感じてしまいます。