運命と宿命

運命と宿命

はじめに

運命という言葉は、場面は限られますが、日常よく使われていますね。また、宿命となると少し重い言葉に感じられて、最近ではあまり聞かれませんが、昭和の時代には良く使われた言葉でした。

一般的に、運命はいくらか避けられますが、宿命は避けられない、そんなニュアンスが感じられます。

また、イスラム教圏では、徹底した運命論的思想で、次のような文言が有名です。

すべてのことはコーランに書かれている。

イスラム教の人々の間に信仰が深く入り込んでいる様子が伺えます。

一方、目に見えない世界が生活の一部として浸透してくると、面白いことに運命や宿命という概念は、次第に頭の中から消えていきます

今回は、運命と宿命について触れてみたいと思います。

運命について

わたしが社会で働いていた頃、同僚をはじめ多くの人々が、まるで昭和のヒット曲のように運が良いとか悪いとか囁いていました。

運も運命のひとつと考えるならば、良運・不運の運命論は、特に気候・地殻変動の激しい日本では受け入れやすい概念でもあります。

不幸な出来事を乗り越えるため、運命ならば仕方がない。自分を納得するために、使わざるを得ない切羽詰まった事情も考えられます。

しかし、こう言ってしまうと一見冷たく取られるかもしれませんが、大抵の物事は起きる原因があり、知らないうちに自分でそれを選んでいる場合がほとんどなのです。

わたしは僧侶になってからというもの、運・不運を簡単に使ってしまう市井の人々に非常な違和感を感じはじめました。もちろん運・不運を、社会生活を営む上での社交辞令として使う一面もあるかとは思います。

なぜ、わたしが違和感を感じるているのか、まずそこから言及してみたいと思います。

運命から因縁へ

人が運命だと思っているものは、すべて縁起から発生した因縁

何にでも因があって、そこから縁が発生し、その因縁ですべての物事は進んでいきます。その因を発生させている根源が、こころのあり方なのです。お釈迦さまは、これを十二因縁の法として妙法蓮華経の化城喩品の中にあります。

人は己の経験や思い癖を基に物事に反応します。その蓄積によって因をつくり縁を紡いでいくのです。こころが整っていれば、自然と良縁として繋がっていくし、こころが乱れていれば反対に悪縁へと変貌していきます。

自分のこころは確かに自分のものです。ですが、ほとんど人は自分のこころを、自分でコントロールしているつもりになっているだけで、実はコントロールできていないのです。

そこに、自分のこころとのずれや齟齬(そご)が発生するため、自分でも思ってもいなかった因が発生してしまいます。

結果、あたかも運命のごとく突然降ってきたかのように感じてしまうのです。

必然を偶然と感じてしまうのは、自分のこころをコントロールできていない証拠

一方で、宿命といわれるものはその因縁の積み重ねで起こります。もっと時間軸のスケールが大きく、中には前世からの因縁というのもあるでしょう。

その積み重ねられた因縁の大きさや複雑さは想像をはるかに超えています。そこで、目の当たりにする出来事を、避けることのできない宿命と感じてしまうのです。

確かに、宿命のように大きな因縁まで発展してしてしまうと、それをコントロールするには無理があります。前世からの因縁など、今世では意識さえできません。

しかし、今世で持っている自身の性格や思い癖は、前世から引き続いて持ち越しているものなのです。

前世からの因縁

わたしの寺院のほとんどの僧侶は、生まれて以来僧侶として生きる因縁を持っています。

それは、僧侶本人がその因縁を知る知らないにかかわらずです。これも、前世からの因縁により発生したものです。例えば、先だっての記事に登場しましたわたしの師匠のひとりにもあたる尼法師の過去は壮絶です。

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尼法師には当時付き合っていた婚約者がいました。出家せねば、自分が同乗した車の事故で、婚約者が死を迎える未来を神から見せられたのです。

僧侶になる因縁にあるものが、その道を逸れると家族や周りの人々に影響を及ぼします。

出家して人助けをするか、愛する婚約者が早々亡くなる俗世に生きるかと、尼法師はつらい決断を神に迫られました。

おわりに

人生の行く末を大きく作用する出来事は大きな因縁に由来します。そのため、宿命として感じられるのです。

この世には人のこころを基に発生する因縁があるだけで、運命や宿命は存在しない

♪運が良いとか悪いとかと手をこまねいている場合ではありません。そして、運命・宿命と思ってしまうのも確固たる思い癖です。

運命・宿命とは、目の前の出来事をもっぱら受け身として甘受することです。一方、縁起・因縁の考え方は、その背景として目の前の出来事を前もってコントロールしていこうという姿勢を持った概念と言えます。

不幸な出来事を不運と思ってしまう自分から、もうひと段階踏み出してみてはいかがでしょう。幸運・不運と処理しない成長した自分を想像してみてください。

運命・宿命の思想は、呪縛に他なりません。

そこから解放された、自由なこころを感じてみませんか?

自分の思いの癖を自覚し、こころをコントロールすることで良い方向に向けていく

欲望にまみれ、自分を見失ってしまうような情報が交錯している現代において、そんなこころが問われている時代だと思っています。

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