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現代仏教への危機感

日本の仏教は、飛鳥時代の仏教伝来から始まりました。現存する日本仏教のほとんどは、伝来より約200年後の鎌倉時代に、親鸞・日蓮上人など開祖の教えとして、一般の民衆に広まりました。この鎌倉仏教と称される広まりは、日本における宗教界の一大革命と言えるでしょう。

時代を経るにつれて、日本仏教は次第に変貌していき、江戸時代からはじまった檀家制度によって、寺院の役割は限定的なものになっていきました。

檀家制度に胡坐をかいてしまった寺院は、本来の役割をおざなりにしてしまい、宗教的・社会的地位の凋落に歯止めが止まらなくなっています。

その傾向は統計にも表れていて、かつてコンビニよりも多いとされた寺院は、潜在的な消滅数を含めてその数は急速に減少しています。人々が寺院の存在意義ばかりか、仏教そのものまで疑問を呈し始めたのです。

他方で、昭和期にはいると多くの邪教による誤った信仰が民衆のこころを蝕み、仏教衰退を決定的にしてしまったことは残念でなりません。一方で、仏教本来の教えや役割から外れてしまった証左ではないかとも思われます。

初期に立ち戻って、お釈迦様の教えを人々の人生の指針として取り戻したい

植物は太陽に向かって自らを伸ばしていきます。時折、道端やベンチの脇にも太陽を求めて異様に曲がった植物を見かけることがあります。このように植物は、自らの栄養になり、育ててくれる太陽に対してまっすぐと伸びていくのです。

ところが、人間はどうでしょう。植物と違って幸福と平和を求めながらも、往々にして固執しがちな自己観念が邪魔をし、自らの基盤さえ自らの手で壊してしまうような矛盾の中に生きています。

家庭崩壊・ハラスメントやいじめ、虐待、果ては自然破壊や戦争に至るまで、自分本位で他者さえも害するような悲惨極まりない事象は後を絶ちません。

植物にとっての太陽が、人にとっての幸せとするならば、人は文明を発展させてきた今でも、その幸せへ率直に自分を伸ばす手段を失ってしまっているのです。

人生の目的とは

五濁悪世と言われる世界では、自分を見失わせるようなシステムが当たり前のように人間を凌駕しています。人々は、莫大な情報に囚われ流されて、欲望の炎に焼かれながら、短い一生を終えてしまっているかのようです。

一度、この世に自分の生まてきた理由を問うてみる

このブログは、お釈迦さまの教えを伝えていこうなどと、だいそれた考えに立っているわけではありません。ただ、欲望の炎に包まれ迷い続けている人々に、まずは自分の立ち位置を見直してほしいきっかけを提供したいだけなのです。

わたしは、福岡は糸島という風光明媚な場所に住んでいます。この拙いブログは、この糸島からその悲願のための小さな歩みだと信じています。

糸島 可也山