はじめに
今回は、戒名というテーマを選んでみました。目に見えない世界では、これも重要なテーマですので、2回に分けようと思います。
さて、戒名とは、亡き人にお坊さんから命名される死後の名というのが一般的です。これは、キリスト教やイスラム教にはありません。
といって、仏教特有というわけでもありません。仏教が国教であるタイやカンボジア、国民のほとんど仏教徒であるスリランカでも戒名という習慣はありません。
じゃあ、いらないんじゃない
と思われそうですが、わたしの僧侶としての経験上まったく不必要というわけではなさそうです。
例えば、わたしの身内の例からはじめてみましょう。
父の戒名
わたしの父は、20数年前亡くなりました。故郷では地元の檀家寺の役員もしていましたので、亡くなった時にはそれはもう立派な戒名を檀家寺のお坊さんより頂戴しました。
それから、わたしが出家して数年たったある日の読経中、亡父より自分の戒名が重いという念が伝わってきたのです。
また、わたしが寺院での修行中、施餓鬼供養の卒塔婆に戒名を書く際にも、似たような経験を何回かいたしました。
戒名の現状
昨今では、個人の自由意志が戒名にまで及んでいるようです。
むかしから戒名は買うものでした。今でも、そんなお寺が一般的だと思われます。昭和の頃は、耳障りの良い院号や、ありがたい言葉を並べただけで価値が上がり、相当な値段を請求されたものです。
一般的には、戒名のどこかに、今世の職業や生前の趣味に関連する一文字を入れる方法が多いでしょう。例えば、文章に携わるような仕事であったならば【筆】【書】【文】、音楽が好きまたはそれに関連するお仕事をしていた人ならば【譜】【音】【響】など。これは、全国のお寺でよく見られることです。
戒名に、仕事や趣味に関わる一字を入れることは別に悪いわけではありません。
わずか一字です。むしろ、故人を知らなかった人にも、「ああ、写真が好きだったんだなあ」などど、偲ぶ手がかりにでもなるかもしれません。
しかし、時代も移り変わり、戒名への考え方まで個性を主張する時代になってきました。戒名にも自分の嗜好に合わせて付けようと、芸能人やアーティストなどを中心に、ファッション性などが盛り込まれるようになってきたのです。この風潮は一般の人まで浸透してきています。
一文字ならともかく、とても戒名とは思えないような、あたかも自由社会を象徴するかのような戒名が見られるようになりました。これは暴走といっても過言ではないでしょう。
このような使い方が広まっているのを見ると、戒名の背景にある意味についてご存じない方も多いと危惧しています。
次回は、わたしが目に見えない世界から得た情報を元に、戒名の意味に触れてみたいと思います。