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お釈迦さまの教え「仏教」は、宗教ではありません。
お釈迦さまが人となって残された、混乱した社会に生きる人々のための智慧の集大成です。
このブログでは、その教えをはじめ、わたしが僧侶として体験した
目に見えない世界の出来事などを紹介しています。
読む人にとって、生き続けていくためのヒントになればと公開しています。

地獄

目に見えない世界を垣間見る

目に見えない世界を垣間見る

【お断り】

人それぞれ、様々な事情があり個人の持つ因縁も複雑で推し量ることもできません。

以下の記事は、決して怖がらせているわけではありません。

あまり深く考えず、参考程度に読んでいただければ幸いです。

また、センシティブな内容も含まれます。

はじめに

寺院には、わたしの姉弟子であり師匠の一人でもある尼法師がいらっしゃいます。わたしもは、この方に寺院との縁を繋いで頂き、出家へと至りました。

その方は、出家前かなりの霊能力者でもありました。若き頃に、寺院の宗祖と巡り合ってその縁から出家し、その類まれな神通力により分院を建立するまでに至った寺院の功労者でもあります。また、法華経にも精通しほとんど暗記されているほどです。

その方は、日本中の高僧が触れることさえもできなかった様々なおぞましい霊やあらぶる神々を治めてきた方です。今回のお話しは、その尼法師から伺ったたくさんの体験談のひとつをご紹介したいと思います。

尼法師の見たもの

葬儀の席で1

目に見える世界では葬儀の席というのは、親族や亡き人と親しかった人などを除いては、定型で退屈な行事の一つかもしれません。しかし、目に見えない世界では様々な出来事が繰り広げられています。

一方で、目に見えない世界で起こっていることを知らない方が、残された親族にとっては良いのではないかと思うことも多々あります。その昔、尼法師が導師となり葬儀を執り行った際の目に見えない世界で起こっていた出来事です。

以下は、その時の光景です。

亡くなった本人が、ちょうど江戸時代の奉行所に見られるようなお白洲(しらす)に座っていました
すると突然、黒い影が彼を包むように覆ったかと思うと、ビュッと風のようにどこかへさらっていかれました

彼の行く先は、百戦錬磨の尼法師でさえ恐ろしくて、見届けることが出来なかったそうです。

亡くなった方は、決して悪人ではありません。むしろ、子供に野球を教えていたほど子煩悩で優しく、どちらかと言えば穏やかな方でした。葬儀後、尼法師が、葬儀で見た風景と生前の様子とのギャップを親族に尋ねたところ、彼はとても浮気者だったとのことでした。

葬儀の席で2

また、尼法師が地元での名士である実業家の葬儀に行った時のことです。

亡くなった実業家は大変なお金持ちで、それはそれは豪華なお葬式だったそうです。僧侶でもない彼の棺には、高僧がまとうきらびやかな七条の衣がかぶせてあったそうです。

式が今まさに始まろうとするとき
その豪華な祭壇を蹴散らし
立派な七条の衣を棺桶から剥がし取り
棺桶の中の亡者を連れ去っていく
羅刹女(地獄の神官)の姿がありました

もちろん、尼法師が感得した目に見えない世界のお話しです。その実業家、事業で成功はしたようですが、生前よほど悪いことをしていたのですね。

様々な目に見えない世界

目に見えない世界にもいろいろあります。古くからの言い伝えにあるような天国や地獄という場所もそのひとつでしょう。人々が地獄を語らなくなって、随分と日が経ちました。

むかしの人たちは、良いことをすれば天国へ、悪いことをすれば地獄へなどと、子供に言い聞かせていたものです。価値観が多様化した現代では、もはや笑い話にもならなくなっています。

高次元でサムシンググレートな存在は、その者の生まれた場所や時代に応じて分かりやすく伝えるすべを講じます。

天国や地獄という概念もそのひとつでしょう。何事も無からは生まれません。それなりの根拠が存在するものです。西洋での天国観は日本のそれとは違いますし、地獄に対する考え方も異なります。しかし、天国と地獄のあり様は、世界共通です。

他方、日本の中でも、天国と地獄という世界は、世間で一般的に通用しているものと、わたしが経験してきたそれらの世界観とは違います。また、その言葉自体も、まるで子供を怖がらせているようで、今回の記事で使うことに、若干躊躇してしまいます。

しかし、他に次元の低い世界を示す言葉が、この世界に存在しない以上、以下からも地獄という言葉で表現する以外ないようです。

地獄のあらまし

地獄とは、亡くなればやがておもむく「あの世」とは別の次元にあり、物質にまみれたこの世よりさらに意識界の低い世界のことです。

ここでいうところの次元とは、もちろん、意識の程度も表わしていますがどちらかといえば、量子力学的な次元の方が、科学的にも今の世に適合するかもしれません。

地獄に行ってしまえば、もはや戻ることはできません。完全な一方通行で例外もありません。地獄に行くことに比べたら、人間まだ無に帰する方が幸せだと思います。しかし、地獄は確実に存在するのです。

むかし昭和の映画で、死にそうな悪役が「地獄で待ってるぜ」なんて、今際のセリフとして使っていましたが、同じ悪者でも残念ながら、待つこともかなわないでしょう。仲間などといった、この世では息つくようなのんびりとした概念も存在しません。

出家前、わたしは、地獄など想像の世界に過ぎないと思っていました。出家後、目に見えない世界の体験を通して、ショッキングだったことのひとつがこの地獄についてでした。

地獄という世界が歴然として存在し、完全な一方通行なこと、さらにはそこへの敷居が思った以上に低かったことがとてもショッキングでした。

したがって、わたしたちのこの世界というのは、結構ギリギリの瀬戸際にあるということです。浮気ひとつで、あの世どころではない、とんでもない奈落の底へと問答無用で吹っ飛ばされてしまうこともあるのですから。

本当の地獄とは

この世で触れる様々な地獄の想像図は、地獄ではなく煉獄(れんごく)です。

真の地獄には、鬼が針山に追い立てるような、ある意味微笑ましい穏やかな?世界観はありません。

鬼がお仕置きしてくれているんです。そこの亡者には、まだ改心する望みがあるということで地獄ではないわけです。実際の地獄には、人が想像すらできない別次元の極端な世界がひろがっています。

世界中のあちこちの遺跡で、こころやこころを象徴した心臓などの重さを計っている神官が描かれています。日本では閻魔様がそれに該当するでしょうか。その神官や閻魔様に裁かれるものは、まだ望みのある方なのです。

おわりに

わたしたちは、大きな因縁の中にあって調和の中で生きる喜びを享受するよう生を得ています。問答無用で、恐ろしい別次元へとさらわれた二人の亡者に共通していることがあります。

その共通点とは、

自分の欲望を押し通し、その一方で悲しみ、苦しみにあえぐ人々に対して自分のこころを微塵も砕かなかったこと

人は必ず過ちを犯します。すこしでも、人としてのこころがあれば

あんなことして悪かったな

あんなこと言って悲しんでいないかな

などと、少なからず反省し傷つけた人に対してこころを寄せる気持ちを持っているはずです。ところが、そんな人としてのこころを失っている人が社会的な地位や貧富に関係なく、この世のどこにでも存在しています。

そんな人の皮をかぶった人の中には、言葉巧みに反省して見せる人もいるでしょう。しかし、人は騙せても目に見えない世界の地獄の管理者には、すべてお見通しというわけです。

まあ、こんな不気味な目に見えない世界にかかわらないようにするためには、

あまり欲望に翻弄されず、つまらないと思わずに静かで穏やかな日々を送ること。

そして、できればちょっとした思いやりをもって生きれたら良いですね。



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