はじめに
一昨日、今年の秋のお彼岸も無事終えることが出来ました。例年になく、わたしの体はとても重かったのですが、その分、今年は多くの霊さんなどが集ってきて良い供養ができたようです。
この秋のお施餓鬼が済むと”今年も終わった”感覚があります。
本日は、施餓鬼供養の疲れがまだあって、頭も少しぼーっとまとまりませんが、つれずれに思いついたことを記事にしてみようかと思います。
幽霊とは何か
世間の常識では、死ねば成仏し、早速あの世へと行ってしまうようです。だから、幽霊というのは特殊で、みなさんにとっては怖い存在なんだと最近気が付きました。
実際は【死ねば成仏】など論外で、あの世へ問題なく行けることはまれ
例えば、通常亡くなってしまえば、樹木葬、散骨などといった故人が葬られた形式とか、経済的に成功した者、貧乏人、家柄とかにも関係なく、ただ骨の周りやあたりに漂っているのが現状なのです(骨に執着する方が比較的多いので)。
肉体を失い意識だけとなった霊の世界というのは、次元が異なるため時間は存在しません。迷っていれば、数十年、数百年などあっという間です。
自分ばかりが特殊だと思うのは早計です。自分だけは例外だと思う根拠はどこにもありません。
地図もガイドもなくましてやナビなどがあるわけじゃなし、そもそも行く先が分からないのですから、自分も幽霊になると思っていてまず間違いはないでしょう。
幽霊とは他ならぬ将来の自分の姿
仏教の役割
わたしの修行した寺院では、仏様の慈悲の一環として、肉体を失い意識だけとなってしまった霊と呼ばれる存在に対して供養を行っています。例えば、餓鬼供養や葬式、回向などは、その肉体の喪失感を癒すため、次の世界への行路を示すための儀式です。
ここに、仏教に大きな勘違いが生じていて、本来仏教とは生きている人たちのためのものです。
本来、仏の教えとは生きている人々のためにある
平和な世界は、個々の幸せの基盤の上に成り立ちます。それ故に、人々が幸せな生活を送れるように、釈迦の教えである本来の仏教を伝えていくことが、わたしの役割なのです。
おわりに
五濁悪世の時代、自身の欲望だけを追い求める人々の末路は迷い漂う幽霊の世界
本来はそうならないように、生きている間にこころの修練をすべきなのです。でも、経済格差などの様々な社会問題が、現代を覆いつくしています。
無宗教の広がりや邪教がはびこり、日本の寺院が本来の役目を見失っている昨今では、そう上手く修行生活を営むのも困難な時代になりました。
鶏が先か卵が先かではないですが、修行生活は心情的に豊かになり、それは豊かな生活へとつながります。現状のこころのあり方を変えられないとすれば、幽霊にもなるべくしてなるしかないのかもしれません。
本日は、何か読者を脅かしているだけで、散漫な記事となってしまったようです。とにかく、頭がぼーっとしていますのでご勘弁のほどを。