はじめに
今日も外は雨です。最近の梅雨の傾向は、梅雨というより雨季っていう感じですね。
前回は、経験的な観点から、死後あの世へ行くまでの簡単な行程の説明と、なかなか人があの世へと旅立てない様々な要因を中心にお伝えしました。
今回は、あの世とこの世との狭間で誰もが気になっているであろう、もう一つ大切な疑問があります。そこからはじめてみましょう。
お迎え
みなさんがもう一つ気になっているであろうことは、親族等、生前親しかった人が迎えに来るのかではないでしょうか。
結論から言えば、残念ながら誰も迎えには来ません。もちろん、短い間ですが見ることや会うことは可能かもしれません。
しかし、親族があの世への道案内をしたという話しは聞いたこともないし、年忌中の経験もありません。もっとも迎えに来たとしたら、迷うこともないし、中陰にて留まる時間が数十年もかかるわけがありません。
基本的に、自分であの世への道を探すしかないのです。人は生きても修行、死んでも修行なのです。
あの世への道は自分で探すしかない
きびしいですよね
お迎えが来ないとすれば、わたしたちは死んだら一体どうすればよいのでしょう。
あの世への道
あの世には、たどっていける道があります。
こころの修行をした者には、中陰からあの世へ続く【白い道】が見えてくる
「白道縁起の報土において」という経文があるように、あの世には、この白い道をたどっていけるのです。
道は分かっているので、後はこの世の名残り惜しさへの整理となるのでしょう。嘘のような話ですよね。これも、わたしの寺院の先代から長く目に見えない世界に携わってきて明らかになってきた事実です。
ところが、一般の方の場合、そんな道は見えていません。
生きている間こころの修行を積んでいるわけでもないので、死んだら当然迷ってしまいます。そこから、長いこころの修行の時間がかかってしまうわけです。中には永遠に中陰に留まってしまうことさえもあるかもしれません。
人が、あの世から最終目的地として向かう先は仏界です。
そこで、仏界についてほんの少しですが触れておきましょう。
仏界とは
仏界とは、人が進むべき最終地点ですがはるかに遠いところです(距離ではなく、境涯として)。
ですので、人界とは、一応道がつながっています。神界と仏界は分かれていて、双方につながりはありません。
そのため、神界については、人界とは道筋が異なるので全くわかりません。何にせよ、神界に人は踏み入れることはできません。そもそもが違うのです。
特殊な事例
ところで、まだ物心もつかない子供が亡くなったらどうなるの?といった疑問があります。
わたしが育った田舎の町では、夏のお盆の頃になると、
地蔵さんに参らんもんは、地獄へ真っ逆さま!(九州弁)
と町内の子供たちが大きな声で練り歩く、地蔵祭りが開かれていました。
物心もつかない幼い子供が亡くなると、不安で心細いその子のこころに寄り添って、お地蔵さまが道案内をしてくれます。
このように、お地蔵さまには、先々ひょっとして子供自身や自身の子がお世話になるかもしれません。
地蔵祭りというのは、子を持つ親や子供たちが、お地蔵さまを祀ってその労をねぎらい、みんなで敬意をはらいましょうという祭りなのです。しかし、その祭りも今では消滅していることでしょう。
時代の変化
昨今、世間では、僧侶も立ち会わないお経ももちろん上がらない火葬だけを行う直葬というのが流行っているようです。
亡き人に引導を渡せる僧侶がいなくなっている現状も嘆かわしいですが、迷う故人が日々増加していることでしょうから直葬は避けたいところです。しかし、直葬で済ませなければならない個々の事情もあることでしょう。
これも、時代の流れで仕方ないのかもしれません。
おわりに
普通の人たちは、亡くなってしばらく迷いこころの修行の大切さを知り、そこからがあの世へ向かう出発点となります。悟るまでにかかる時間は、その人も持っていた性格や気質、または前世から引き続き持っているこころの癖に関わってきます。
死んだからといっても、生前抱えていた苦しみが消えるでもなく、迎える人もない厳しい世界が待ち構えています。
そんなことにならないように、生前こころを整えることが大切なのです。
しかし、日本でも西暦1900年代後半のバブル期あたりから邪教がはびこり、こころの修行のあり方もすっかり誤解されるようになりました。
こころを治める修行というのは、洗脳され束縛されることではなく、こころを自由に解き放ち、自分を開放する方法を学ぶことです。
そうして、こころが解放されてはじめて、目に見えない世界も感じられてくるようになるのです。
こころを委ねる対象は、キリストさまでもお釈迦さまでも結構。
ただし、邪教はやめた方が良いでしょう。邪教というのは、大いにして教団維持のため自己犠牲を強いるケースがほとんどです。また、その布教の過程で仏の種を育むはずだった人のこころを歪めてしまうことだってあり得ます。
仏の芽を摘むあらゆる行為は、人として決して犯してはならない謗法(ほうぼう)の罪にかかわる
謗法罪は、目に見えない世界では問答無用で奈落の底です。
こころの修行場所は、慎重に見定めましょう。