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お釈迦さまの教え「仏教」は、宗教ではありません。
お釈迦さまが人となって残された、混乱した社会に生きる人々のための智慧の集大成です。
このブログでは、その教えをはじめ、わたしが僧侶として体験した
目に見えない世界の出来事などを紹介しています。
読む人にとって、生き続けていくためのヒントになればと公開しています。

仏の教え 転生

過去生を知ってわかった人生の指針

はじめに

過去生を思い出す機会を得たことから見えてきた、人の間に目指してほしい指針を簡単にまとめてみました。

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なお、今回のお話しの中には、説明不足の点が多々あります。語句の意味など検索して確認して頂ければと思います。

地球上の生き物

地球上には、人の鍛錬のため、縁起と因縁が巧みに絡み合った人生という壮大なシステムが設計されています。

誰しも自分のこころを鍛錬する宿命にあります。

なぜ、こころを鍛錬するのかというのは、地球上の生命体に繰り返し生まれ行く連鎖から離れるためです。

なぜ地球上の生命体のままではいけないのかというと、地球上で生き物として生きるためには、どうしても苦しみが伴うからです。

苦しみとは、人生が自分の思い通りにならないことです。年老いてくれば体や容姿は衰え、若かりし頃の美貌も体力もなくなり、思うように動かなくなっていきます。人と向き合っても、お金がなくても、人生思い通りにならないことばかりです。

苦しみを伴う最大の要因は、こころと体とが互いに離れることができずにいることにあります。医療や薬に頼ったり、様々なアンチエイジングを駆使してみたところで、表面的な満足しか得られないのがオチです。

それよりも、体に起こる変化や身の回りで起こる変化を、そのまま受け入れていくことが、人に求められている生き方なのです。

そのあたりを経文の中から触れてみましょう。

<真読>能令衆生。離一切苦。一切病痛。能解一切。生死之縛。
<訓読>能く衆生をして一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたもう。

~妙法蓮華経 薬王菩薩本事品第二十三

一般的に、この経を呪術的に解釈し、利益的・他力的に捉えられがちです。真実はこの本事品を含め法華経全体から学ぶことによって、自分の病痛や生死の呪縛を解(と)かして(少なくして)いきましょうね、と能動的・自力的に捉えるところです。

しかし、実際、生の苦しみの中でも病の痛みや死の恐怖に着目してみると、精神力だけで解消できる問題ではありません。

病痛は耐えられないし、誰しも死への恐怖はぬぐいきれません。その点を踏まえて、日頃から少しでも離れようとする努力を心掛けていきましょうと示唆しています。

こころと体の癒着は、執著(しゅうじゃく)と言い換えることができます。わたしたちは、地球上で生きている間、様々な事象に対してこの執箸を持たないことが大事なのです。

名誉にあれば名誉に、お金があればお金に、美しければ美しさに、人は生まれ恵まれたものに囚われ執著を持ちがちです。また、恵まれることがなければ恋慕し、力づくで奪おうともしてしまいます。

この世界は表面的・物質的に見れば大変不公平です。不公平だからこそ、何事にも揺らがない自分のこころを磨く努力をするのです。

地球上にある、空気や水、生命を育む環境は、わたしたちが得ることのできる果実です。

この地球上の果実をいつまでも享受しているだけでは進歩がありません。最終的には、お釈迦さまがおっしゃったように、サイの角のように自分を進化させるために独り歩まなければなりません。

この地球上の生命体として離れ終える事。この進化を一般的に解脱と言います。

画像はイメージです。

解脱について

解脱といえば、言葉の持つ強さのためにたいそうに聞こえます。人は、完全に解脱することはできません。心残りは誰しもあるものです。

一方で、足るを知り、最低限の衣食住で満足していれば、手放すことになっても苦しみの度合いは和らぎます。これが生きる智慧というものです。

しかし、時として転生を繰り返し、長く生命体して生きていれば、次第に享受する喜びや悲しみまでも、こころの奥底まで入り込んでいきます。これを縁起といいます。

縁起によって、自分のこころにまとわりついたものは、思う以上にたくさんあります。

こころの中に入り込んでその住処を与えていくと、いつしか思いもよらぬ塊となって居座り続けてしまいます。この因縁から発生していく塊を日本的に「煩悩」と言っても良いし、西南アジアに起源をたどれば「束縛」または「結」といっても良いでしょう。

その塊は頭脳まで登り、自分の言動に口出しを始めてきます。性への渇望は目を通して、食への渇望は口を通して、思考のゆがみは耳を通して入ってきては大きくなっていくのです。

入ってくる情報によって塊は成長し、極端になれば自分自身のコントロールさえ失ってしまいます。あらゆる情報が飛び交い、あらゆるモノが流通する現代の病巣がそれを助長しています。

塊が欲しているものが手に入らなければ苦しむし、手に余れば虚しくなります。人が塊とともにあれば勝手な生き物となり、その姿は動物と何ら変わりありません。

解脱とは、言ってしまえばこの塊を出来るだけ小さくしていくことです。

わたしの場合

2600年ほど前、わたしはお釈迦さまの下で修行し、預流果(よるが/須陀洹〈しゅだおん〉)を得ることが出来ました。

預流果とは三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)に陥ることのない境涯です。その後生まれ変わること7~8回。今世での出家前に「怒り」を治め、さらに声聞行を進めていく内に、こころの中に見えてきたものがありました。

インド 霊鷲山

前節でこころの中の「塊」と表現したのは、自分のこころの中に見えてきたものが、塊のように変化していったからです。

こころの中のこの塊は一体何なんだろう

詳しくは申せませんが、今世において出家しても、依然わたしには人間にいささかの煩悩がありました。それが、だんだんこころの中の塊となって見えるようになってきていたのです。

インドへ訪問

その塊が、突然スーッと無くなったのが昨年末のことでした。このこころの変化が、今年3月の訪印につながったのです。

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わたしは、インドはガヤ州ブッダガヤにあるお釈迦さまが悟りを開かれたマハーボディ寺院にて、再び生まれ変わることのない不還果(ふげんか/阿那含〈あなごん〉)の境地を確認しました。

そうして現在、わたしはその次の段階である阿羅漢果に向けて修行を続けています。

今後の課題

阿羅漢果に向けてのわたしの課題は、わたしの法名である泰清の<清>にも関わっている瞋恚(シンニ/パーリ語でパティガ)の克服です。

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瞋恚とは、わたしの場合、自分のこころに沿わない、修行の足りていないこころを持って、人を断罪したり追い詰めたりする者に対する憤りが、まだぬぐい切れないことがあるのです。

今世まで持ち越してきたこともあってか、時々こころの中に熱が起こり、境涯が落ちてしまう傾向にあります。

まとめ

わたしは、今世において大乗仏教の寺院で出家しましたが、2600年前の過去生において、大乗に則ったシステムはありませんでした。

そこで、大乗経典である法華経のみならず、辛うじて残っている古い文献から読み取れるお釈迦さまの言動を頼りに、不還果に次ぐ阿羅漢果(初期仏教における最上の悟り)の境地を目指しているのです。

人生の指針を示すならば、お釈迦さまの残された最後の言葉に凝縮されています。

もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい。

~大パリニッバーナ経

特定の宗教・宗派は関係ありません。仏教は宗教ではありません。大切なのはこころのあり方なのです。

総括してかみ砕いてみると、

自分の欲はほどほどに時には自分を見つめ反省し
少し迷いが出たときには、こころを整えて自分の軸を再確認
そのような一連の流れを習慣として組み立てていくこと

これが、わたしが学んできた人生の指針です。

この大乗仏教とお釈迦さまの時代にあったこころを整える方向・方針につきましては、次回以降にまとめてみたいと思っています。



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