仏教とはいったい何なのか?

はじめに

主にインド・ネパールなどで普及している宗教にヒンズー教があります。

多神教で土着的、現世利益を求めながら輪廻からの解脱を願い、民衆に広く信仰されています。

特定の教祖や経典、教団を持たず、多様性と柔軟性を持ったヒンズー教に対して、わたしは日本のあやふやな信仰意識に近いものを感じています。

インドのどんな田舎に行っても、まるで日本で鳥居を見るかのように立派なストゥーパを伴って、華やかな原色と細かい彫刻を施した施設に出会います。

ヒンズー教はバラモンから始まって様々な教えを取り込みながら、成長してきたしたたかさがあります。

道端のヒンズー教施設

当地での大乗仏教も例外ではなく、ヒンズーの教えの中に取り込まれ、仏教の開祖とされているブッダは、ヒンズー教3柱神の一注であるヴィシュヌ神の9番目の化身として位置づけられています。

現在、ブッダが開悟した場所に建立されたマハーボディ寺院でさえヒンズー教徒の管理下にあるのが現状です。このような概念は、大多数のインドのヒンズー教の人々のコンセンサスとなって定着しています。

インド人のヒンズー教徒の誰に聞いても、仏教徒への考慮からか、ブッダがヒンズー教の混乱を招いたものとは直接は言及しませんが、彼らの暗黙の共通概念となっています。

今回はヒンズー教の視点から、お釈迦さまの教えである仏教について考えてみました。

日本「仏教」は仏教ではない

仏教という言葉が本来お釈迦さまの教えを指しているのであれば、以下、本来の意味とは異なる意味を持つ仏教については括弧付きの「仏教」と表現させていただきます。

日本には、古くから実際は開祖の教えであるにも関わらず、一般向けには「仏教」教団としている宗教団体が多数存在します。

仏教という名称は、その解釈も様々でしょうが、大陸より伝来し鎌倉時代から民衆に急速に普及した浄土思想を中心にして、日本人に根ざしてきた経緯があります。

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衰退していく日本の仏教 一時はコンビニよりも多いとされたお寺も減少が急速に進み、生き残る仏教施設は文化財かきれいな庭園くらいだと思われます。その衰退の問題を出家者のあり方を中心に書いてみました。

上記記事では、出家者のあり方から内部的な事情を中心に言及してきましたが、その人々から構成される「仏教」を冠名した宗教施設もまた、人々に仏教ではない「仏教」を広めてきました。

もちろん、戦乱当時の時世からは仕方のない一面はありますが、お釈迦さまの教えとしての仏教を焦点とすれば、別物を台頭してきた観はぬぐえません。

さらに、特に昭和以降になると、仏教用語の字面を飾り立てて、雨後の筍のごとく出現し、多くの人々を苦しめてきた「名ばかり仏教」が多く台頭してきました。戦後の復興ムードも一段落し、暴走していく資本社会に疲れた人々を甘言を持って取り込み、多くの人々を苦しめてきました。

これらが犯した罪は、日本人独自のあやふやな信仰意識をさらにあやふやにし、結果的に仏教をまるごと遠ざけてしまいました。邪教と言えるような「名ばかり仏教」の犯してきた罪は、本当に取り返しのつかない謗法罪と言えます。

結局のところ日本人は、本物の仏教を知らないまま、「仏教」の衰退を目の当たりにしていくこととなってしまったのです。

仏教は宗教ではない

日本の寺院の多くは、開祖以来、住職をトップに様々な階級制度を敷き、会社組織などの社会の仕組みを取り入れて、より効率的に運営しています。

大きくなればなるほど、組織運営に重心が移っていくのは仕方のないことでしょう。反面、組織化した時点で仏教ではなくなってしまうのも事実です。

このような事情により、日本に伝わったお釈迦さまの教えも、無くなっていくのは当然です。わたしが発信してどうこうできる問題でもなく、自然な成り行きに過ぎません。

「仏教」が衰退しようが、人々がお釈迦さまの教えを実践しようがしまいが、目に見えない世界、因縁・因果を含めて、その結果のすべては人類自身が受け止めていくものです。

そこに自身の喜びを見出すことができるのか、それとも罪を罪とも知らずに生命を終わらせるのかは、まったく個人の問題です。

お釈迦さまの教えは発見

お釈迦さまの教えを広めたい気持ちもわかるのですが、仏教の入れ物として宗教または宗教団体にしてしまうのはそぐわないと思っています。

それは宗教化してしまうと、結局のところ開祖や組織が権威・権力を持つことになるからです。そのことだけで、もはや仏教ではありません。

仏教は宗教のひとつではなく、お釈迦さまが修行のすえ到達した人の実相であり真理なのです。ここにも、人々が長らく「仏教」として触れてきたものとの大きな誤謬があります。

まとめ

ヒンズー教は、近代日本の雑多な信仰感情を思い起こさせると最初に言いました。一方、様々な教義を取り込みながら変容していく日本の「仏教」にも、ヒンズー教との共通点を多く確認できます。

日本の「仏教」というのは、お釈迦さまの教えを伝道するわけでもなく、世界でも類を見ない独自な発展を遂げてきています。

インドにおける「ヒンズー教下の仏教」のように「日本独自の「仏教」下の仏教」と言い換えられるかもしれません。いささか混乱してしまいそうですね。

これは、急速に無信仰化していく庶民のご利益指向に合わせていくと、多神教のもと法楽加持を優先し、同じような経過をたどるという証左だとも思われます。

一方、わたしのような個人がブログで発信する利点は、権威も伴わず組織を維持するわけでもないところです。

お釈迦さまの教えの根本は気付きです

伝えることも、伝わることも難しく、誤解を承知で言ってしまえば個人の覚悟に依ります。

お釈迦さまの教えが必要な方は持って生まれ持った因果・因縁によって、やがては実践していくことになるかもしれません。そうしてお釈迦さまの教えを知りたい、感得したいという熱望が、次のより高い世界に至る試金石となるのです。

仏教というのは、本来こころに仏の種を宿すための序開き(じょびらき)

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この記事を書いた人

様々な職業を経て、九州の山奥の寺院にて51歳で出家いたしました。
出家して11年、このブログは僧侶としての経験を交えながら、お釈迦さまの教えの忘備録を主に自身のために記録したものです。

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