はじめに
わたしには、二十歳を過ぎました娘が一人おります。
わたしの寺院の住職をして【ガラスのこころ】と言わしめた、とても繊細なこころの持ち主です。そのため、本人は昔ほどではありませんが、今でも世間との折り合い方に苦労しています。
今回から、2回に渡って目に見えない世界の視点から、この娘と向き合ったこれまでの経緯などお話ししてみようかと思います。この記事の中から、みなさんに何か伝わるものがあればと思っています。
ことのはじまり
小学校も高学年になるにつれて、幼かったこころに比べて、多かれ少なかれ世間との軋轢が生じてきます。
娘の小学校時代、特に印象に残っているシーンがあります。ある日、わたしが仕事から帰ってくると、娘が家の廊下の暗がりにポツンと座っていました。すると突然、クラスのみんなで考えたらしいクラスの標語(失念)を叫んだかと思うと
ちっとも仲良しじゃないやん(九州弁)
と大粒の涙を流しはじめたのです。
理由もなく仲間外れにされたことと、自分たちで一生懸命考えたクラスの標語との隔たりに、かなりショックを受けているようでした。
社会にでれば、本音と建て前の違いなど当たり前の世の中ですが、まだ幼い娘にとっては、標語と同級生の行動とのギャップに耐えられなかったのでしょう。
後から知ったことですが、正義感の強い娘は既に仲間外れにされている友達をかばったところ、新たな標的にされたようでした。
娘は気丈な一面もあって、人前特に親の前では決して自分の感情を表しません。でも、それまで我慢してた気持ちが一気にあふれ出たのでしょう。今まで見せたことのないほどの大粒の涙が、止めどもなく溢れ出ていました。
学校がとても楽しく小学4年生まで皆勤賞でした。しかし、この時から、娘の中で学校というこの世界のはじまりの様相が、一変してしまったのです。
この世には残酷な一面があります。娘の本気で悲しむ姿をはじめて見るわたしは、とてもやるせない気持ちでいっぱいになり、かける言葉もありませんでした。
それからというもの、娘の目からは光が消え、とうとう学校へ行くことが出来なくなってしまったのです。

父親としてのジレンマ
わたしの青年期は、ちょうど共通一次がはじまった頃で、受験戦争真っただ中でした。
大正生まれの両親は小学校しか出ていなくて、一流大学、一流企業に入るのが当時のステータスでしたし、何より両親も、わたしに期待していたのだと思います。
当時、わたしの田舎では、ホームレスや仕事もなくさまよい歩く人々も生活圏内にたくさんいました。受験の頃になったわたしは、大学受験に失敗したときの自分の行く末を、そのホームレスたちに重ね合わせていたのです。
そんな環境に育ったわたしにとって、娘の登校拒否という現実が自分の目の前で起こっていることを、当時はなかなか受け入れることができませんでした。
前進しようとする娘
娘が小学校の高学年の頃、わたしは勤めていた大学が廃校になるのを機に自営業を始めていました。
家にいることが多くなったわたしは、当時正社員だった妻と娘の食事を作ったり、学校に行けない娘を取引先に連れて行ったり、出来るだけ娘と一緒にいるようにしました。この頃は、娘に対して腫ものに触るように接していたように思います。
だんだんと学校に行けるようになってきた娘は、クラス替えを経て、ようやく学校通いを再開しました。そして、いじめをした同級生たちと同じ中学へ行くのを嫌い、中高一貫の私立校の受験に挑むことにしたのです。
二度目の挫折
結局、受験した学校にはすべて合格し、電車とバスを乗り継いで家から一時間以上はかかる小人数のキリスト教系の進学校へと進学しました。
学校も楽しそうで成績もトップクラス。これで、すべてが順調に行くと思ったのもつかの間でした。過酷な受験と朝早くから夜遅くまで勉強に明け暮れる毎日は、まだ年端もいかない娘にとって、本人の知らないうちに大きな負担となっていたのです。
ある日、ぷっつりとタコの糸が切れたように学校に行けなくなっていました。本人にも原因が分からず、それは娘にとって長い冬の時代の始まりでもありました。