目次
はじめに
最初に表題の過去生について、簡単にご説明しておきましょう。
過去生とは一応仏教用語となっています。人が生まれ変わりを続けている状態を輪廻転生といいますが、その多くの転生の中の過去における人の一生を特定して過去生と呼んでいます。
わたしのブログでは経験上、転生は存在するものとして書いています。すなわち、人は様々な生き物に生まれ変わりを繰り返す転生を背負ってこの世にある意識存在だということを断定しています。
その点を前提として、この先読み進めて頂ければと思います。
また、次ページ<まとめ>のところで、わたしの過去生を知見した経験から見出した大切なことを書いています。途中は適当に端折って、少し興味のある方には、まとめだけでもお読みいただければと思っています。
過去生について
過去生があるのかそれとも無意識に脳内で起こる幻か。
あると信じている人もいるし、「人生は一度きり」と確信し、できるだけ一度きりの人生を謳歌しようと決めている人もいることでしょう。ある統計によると、日本人の7割ほどは、転生があると何となくでも信じているそうです。結構いらっしゃいますね。
世界のあちこちで、過去生、転生の詳細な記録が残っていて、その証明もなされているようです。しかし、改めて考えてみると、人の人生、特に過去生など至極個人的なお話しです。
そのため、例え親しい間柄でも、互いに共通した過去生の記憶でもない限り、話題にすることなどはありません。
また、過去生の記憶がない人ならば、人生は一度切りと思ってしまうのも仕方がありません。一方で、「もし万民が過去生を知っているとしたら」という世界も、混乱が絶えず収集が付かなくなってなってしまうのも容易に想像できます。
過去生がわからないようにしている仕組みは、人が今世に集中できるよう、よく考えられたシステムだと思います。
わたしの場合、出家前から堰を切ったように自分の過去生が流れてきていました。しかし、過去生がわかったからといってその後の人生が変わるでもありませんでした。
つまるところ、たとえ過去生を知ったとしても、所詮、過去は過去に過ぎないため、今世を生きて行く上にはほとんど関係のないことなのです。いくら過去生といっても、知ることのできた情報が平凡なものであったとすれば、知ったところで仕方がありません。
過去生があると信じている人でも、多くの人々の過去生についての考え方が、こんなものではないでしょうか。
一方で、過去生を知ることが、無駄ばかりかと言えばそうでもないと思います。それは、人の一生は今世だけではないという認識に立つことができるからです。広い視野に立って、人生を改めて見直す機会が得られるというものです。
転生を知ったところで意味がないとはいいましたが、知り得た過去生に誰でもが知っているような人物が絡んでくるとすれば、また話しも変わってきます。
昨年突然思い出した過去生は、まさにそんなもので、わたしの今後の人生と同時に、出家後抱いてきた仏教に対する考え方さえ変えてしまうほど衝撃的な内容でした。
それでは、わたしが、思い出した過去生と、それを辿っていくうちに少しだけわかってきた仏教、取り分け仏教における出家者についてお話ししたいと思います。
2023年の出来事
きっかけ
わたしの過去生についての観念を覆す出来事が、昨年2023年寒さもまだ残る3月のある日に起こりました。あるきっかけから決定的な過去生のことを思い出したのです。
出家からちょうど十年が経ち、このブログを書くために、住職からこれまで頂いたお釈迦さまや法華経に関するレジュメを整理・熟読していく内に、お釈迦さまの教えがようやく腑に落ちた頃の出来事でした。
それは、これまでのようにサムシンググレートな存在からの知らせなどではなく、
そういえばあんな事もあったなあ
と、それはまるで数年前の出来事を思い出すかのようでした。
ふっと思い出した過去生は、何と数千年前の出来事でした。なぜ数千年前だとわかったかというと、思い出した出来事の中で、わたしは生身のお釈迦さまに、自分の性格について静かに諭されていたのです。
過去生を思い出して
お釈迦さまと一緒にいた過去生の記憶から繋がって分かってきたわたしに相当する人物は、歴史上記録としても残っている人物でした。
その人物の残された資料を調べ辿っていくと、その過去生はわたしの今世と強いつながりがあることがわかってきました。記録としている人物の人生と今世のわたしの性格等が一致していたからです。
ここまで今世と深くつながった過去生を思い出してしまうと、単なる過去の出来事に過ぎないとは言えなくなってしまいました。
そうして、これまでのわたしの人生は、寺院の仏塔の元で出家するためであって、改めて出家は必然だったことを思い知らされたのです。
次第にわかってきた過去生
その出来事を思い出してからというもの、当時の周りの状況も次々と思い出し始めました。
下記の記事で書いたように真昼間の洗面所前からはじまった出家にいたるエピソードにおいて、その出家のきっかけから出家後も叱咤激励してきた人物は、当初過去生の自分とばかり思っていました。
過去生の自分自身が、在家で好き勝手に暮らしているだらしなさを叱咤激励し、出家へ導いていると思っていました。
ところが、この人物もまた、わたしと数千年前にとても縁深かった方で、歴史上記録として残っていました。そうして、出家前から知らされていた自分の姿は当時のだらしなかったわたしではなく、数千年前の破門された頃のわたしの姿だったのです。
脚色されたわたしの過去
わたしが思い出した過去生は、昨年から少しずつ思い出してきた他の出来事や数千年前から縁の深い人物からの情報を合わせてみると、現存する歴史的資料とは大分異なっていることがわかってきました。
言うまでもなく、歴史に書き残された著名人の一生というのは、わたしの過去生に限った話しでもなく、随分と脚色されていることが多いのではないかと思われます。
歴史の記録として残っているわたしの過去生は、とても立派な人間として描かれていました。しかし、わたしが思い出した過去生の自分の行動は、まさに出家前の自分の性格に起因するものでした。
両親とも同じような性格の傾向にあるため、この性格が過去生から受け継いでいたものとはわかりませんでした。
過去生のわたしは、歴史的な資料上最後まで仏教に貢献し、天寿を全うしたと記されています。しかし、わたしは過去生において、この性格から起こした行動のために生活が崩壊し、挙句の果ては破門され、人生を終えてしまっていたのです。
出家者からの堕落
次第に思い出してきたわたしの過去生は嘆かわしいものでした。お釈迦さまと供にあったわたしの過去生で、破門に至る結末のきっかけとなった出来事はお釈迦さまの死でした。
お釈迦さまが自ら弟子たちにご自分の死の予言をされたときも、当時のわたしは、お釈迦さまは決して死なない特別な存在だと信じて止みませんでした。
何より当時のわたしにとって、お釈迦さまはわたしの全身全霊であったため、「生きたままわたしたちを導いてほしい」という願望が強かったのかもしれません。
実際お釈迦さまが荼毘に付されてしまうと、それまで教えられた法のことなど頭から吹っ飛んでしまって、わたしは自分自身を見失ってしまいます。
その後、お釈迦さまの死について、弟子たちからもなんやかんやと責め立てられ、何もかもが嫌になって、自暴自棄からお釈迦さまの戒律まで破ってしまうのです。不条理に責められると、カッとしてしまっていたわたしの性格が災いしています。
そうして、過去生で50歳時に破門され終えてしまった出家者としての人生を完遂するために、今世において改めて51歳で出家し直しているのです。
性格が起こした過ちを取り戻すために、これまで数千年もの長い時間を費やしたことを考えると、ありふれた性格の欠点ではとても済まされないですねw
恥ずかしい話し、このブログでも何度も警告しているように、
人の持つ<こころの癖>が思わぬ悲劇を生む
その典型的な例が誰あろう自分自身だったのです。
もうひとつ、わたしの今世の傾向として過去生から受け継いでいる決定的な事項があるのですが、ブログで紹介するには少し敷居が高すぎますので控えさせていただきます。
出家を中断させないために
過去生を思い出してわかってきたことがあります。それは、わたしの出家はわたしだけの問題でもないことです。
どこにどう繋がっていくのかはわかりません。でも、わたしが出家を全うすることは、わたし一人の問題でもなく、目に見えない世界で多くの人々にも関わっているようなのです。
そのためかどうかはわかりませんが、出家後過去生と同じような過ちを犯さないよう、出家を取り消された要因となったわたしの衝動的な性格は、以下の記事のように早速消去されてしまいました。
きっと、今世の出家に向けて少しずつ自分の性格を補正していきながら、ようやく今世の出家前に抜くことが出来るまで軽くなったとも思われます。
先祖伝来に起因している忌みすべき性格が解消されたと以下の記事では喜んでいますが、上記のような理由からだとわかりました。
長くなりそうなので、2ページに分けました。次ページ最初の段は、出家を取り消された過去生の記憶から分かったことです。出家者に限ったお話しですので、在家の方でも興味のある方がいらっしゃればどうぞ。