はじめに
わたしは、毎日家族の食事を作っています。
家族の食事作りは、出家して家に不在だった時を除いて、もうかれこれ20年以上になります。自営業となった最盛期では、毎日の3食に加えて妻と娘の弁当がありました。
今回は、この食事に関して、出家後の修行時代体験したことを記事にしたいと思います。
気が進まない食事作り
実は食事をつくることはあまり好きではありません。たとえ、作った食事を喜んでくれたとしても、それがモティベーションになることはありません。
年を取ってくるともともと食事作りは億劫なので、とても面倒に感じてきます。といって、外食は費用がかさむし、何より味付けが濃くて口に合いません。
一人で暮らしていても食事は作らなければならないので、その延長上に家族の食事があるものと自分に納得させています。でも、実際妻子が出かけて留守のときなど、適当な食事になってしまいます。
これが続いてしまうこと考えると、自分の健康維持のためにも、面倒な食事作りでも理にかなっていることなのでしょう。
修行時代の出来事
出家後の修行時代、毎朝4時に起きると、納骨堂、各供養塔のお茶水と神仏へは仏飯をお供えしていました。
ちなみに、仏飯に盛る飯の形は、わたしの寺院では宝珠の形に盛るように決まりがあります。
納骨堂や供養塔回り、仏飯をお供えした後、朝7時の全体読経前にしばらく止念観という瞑想を行います。
僧侶といえども狭い寺院内ではちょっとした軋轢もあります。まあ、これも修行の内です。
ある日、少しむしゃくしゃして、いつものように仏飯をお供えした後、止念観をしていたところ、目の前についさっきお供えしたばかりの仏飯が見えてきました。
その仏飯をよくよく見てみると何と真っ白い飯に、あちこち黒いものが混じっているではありませんか。
お供えした仏飯に、自分のむしゃくしゃしたこころを表すように不浄の念が黒い飯粒として現れていたのです。
伝わるこころ
わたしは、邪念が入った仏飯をお供えしてしまったことに大変申し訳なく思いました。一方で、その時、はじめて神仏に自分のこころは通じているんだと感銘していました。目に見えない世界に通じたはじめての体験だったのです。
”今のこころ”と書いて【念】という字になります。これをきっかけにして神仏に伝わる念の持ち方、次第に分かるようになりました。
こうして、祈祷にしろ、供養にしろ、神仏に自分の念が伝わることに確信を持つことができたのです。
まとめ
家族の食事を作る際も、できるだけ邪念を持たずに作るようにしています。それは、邪念を持って作ると不思議に手を切ることもありますが、食事には、仏飯の例のように作り手のこころが写るからです。
邪念を持って作った料理を食べ続ければ、病気になるかもしれません。また、おいしくなりますように、健康になりますようにとこころを込めて作ればその味も変わってくることでしょう。
僧侶としてのわたしの念の波動は、通常の人とは違い特別であることを再認識しながら、こころがけを意識して作る食事はわたしの修行の一環ともなっています。