お釈迦様を本尊としています。
わたしの出家しましたお寺では、お釈迦さまの意識存在が入られた多宝塔をご本尊としております。
爾時多寳仏 於寳塔中 分半座與 釋迦牟尼仏 而作是言 釋迦牟尼仏 可就此座 即時釋迦牟尼仏 入其塔中
妙法蓮華経法 ~見宝塔品第十一
この多宝塔を精神法界の最上の仏界としています。
その中でお釈迦さまは真理と同化され、自ら悟った法を広めようとされているのです。
数千年前の遥か昔、人並外れた霊力と人格を持つお釈迦さまのもとに集まる人々の望みは、現代人のそれとほとんど変わらず、病や生活苦など、生きる苦しみから解放されたいという現世利益を求めることでした。お釈迦さまは、そのことを深く理解され、慈悲をもってその要望に応えていました。
しかし、お釈迦さまの本当の望みは、自らの強力な霊力をもって一時的に苦悩から解放される人々の喜びや感謝を受けることではなく、人々が人生に目覚めていく姿を確認することでした。
人が目覚めるということは、自分の生き方を見直し見定めるということです。成仏(仏となる)とは、誰もが死ねば至れるものでもなく、ましてや高いお金を費やして買うことのできる切符のようなものもありません。
成仏までの道は遠く険しいものですが、誰しも心の中にその道を歩むためのその種(仏種)があり、その種を最も育てることのできる時間は、生きている今の短い間なのです。
わたしは、このブログの中で、これまで経験した死後の様子を含めた目に見えない世界での様子を公表しています。それは、目に見えない世界の体験を通して、人生にとって何が大切なのかを皆様に少しでも悟ってほしいと願っているからに他なりません。
一方で、わたしが修行した寺院が基本経典としているお釈迦さまが残された法華経の中に、「死後を考えても無駄なこと」という趣旨の文言が出ています。これは、死後を考えるなということではなく、「死後を考える暇があれば、生きることに集中しなさい」ということなのです。
仏へ至る順当な生き方をすることは、たとえその歩みが遅くとも、ご利益(りやく)に繋がり自分の人生を豊かにしていきます。その最初の第一歩は、自分の癖づいた思いを見直すことです。しかし、それは思っている以上に難しく、その道筋をつけることのできる仕組みも必要です。
わたしは、このサイトに出会った人々に、どうか自分のこころのあり方に注意を向けてほしいと思っております。集い来る皆様に、より良く生きるための智慧や情報をお伝えできることができれば幸甚です。
泰清