仏の教え

原罪と罪障

はじめに

視点を変えてみると、色々なことに対してより一層理解を深めることが出来ることがあります。

今回取り上げるテーマは、原罪と罪障についてです。メインのテーマは罪障ですが、キリスト教における原罪からのアプローチも面白そうでしたので、前回に続いて法華経における罪障をキリスト教からの視点と合わせて説明してみようと思います。

原罪はキリスト教の旧約聖書に書かれていることもあり、キリスト教の教派によっては基本的な概念のひとつとなっています。一方罪障というのは、これを存命中に消滅させることを目標とする仏教教派、特に法華経の信奉者の基本的な概念のひとつとなります。

どちらも生きている間は制御ができないとされる、人が生まれ持ってきているものです。それでは、このキリスト教にみられる原罪と合わせて、法華経の罪障の概念について理解を深めていきたいと思います。

原罪とは

原罪とは、旧約聖書に書かれている概念です。もちろん、キリスト教の教派によっても様々な解釈があるようですし、同じキリスト教でも原罪の概念を否定するところもあります。

現代の西方教会においては、罪が全人類に染み渡っていて罪を不可避的にする状態の中に、全人類が誕生して来る状態を指す表現として理解される傾向がある。

wikipedia「原罪」より

旧約聖書に書かれている場面に、原罪に至る経緯が物語として書かれています。その舞台はエデンという理想郷の代名詞ともなっている場所です。このエデンにて、蛇にそそのかされたイブが、禁断の木の実を食べたことによって、神の怒りを買ってしまいます。

それを食べると、あなたがたの目が開ひらけ、神のように善悪を知る者ものとなることを、神は知っておられるのです

創世記3章5節 より
エデンの園の絵画(著作権フリー)

蛇の甘言につられ食べてしまったイブは、アダムにもそれを勧めます。

創世記3章9節 - 13節みられる、アダムはイブに、イブは蛇に責任転嫁する様子は、楽園を追われた後の人間らしさがにじみ出ていて、人類の暗澹たる未来を暗示しているようです。

この原罪で注目したいのは2点あります。まず一点目は、明示的に書かれているように神と同じように人が善悪を知るものとなることです。理想郷に住むものにとっては、理想郷なわけですから善悪の区別など必要ありません。禁断の実を食べた行為によって、はじめて「悪いことをした」意識が目覚めます。

これは言い換えると、人は本質的に善い行為、悪い行為について知っているはずだということです。そして、以下のような意味へと発展させることができます。

この世で当然人は善悪の判断ができるはずだ。

2点目は、楽園を追われてしまった人間に、神が全知全能である認識が欠けてしまっている点です。エデンの住人であった頃ならば、神は全知全能なのですから全ての出来事をお見通しだと知っていたはずです。なのに、それすら忘れてしまって互いに罪の擦り付け合いをしているのです。ここから、以下のようなことがわかります。

原罪を負ったことで、現世の人間には、本来の神が認識できなくなっているということを表している。

以上の2点から、原罪の物語から次のような解釈も可能です。

人は神を認識できなくなったことで、善悪の判断もつかなくなっている。

興味深いのは、法華経における罪障の意味合いととても似ているところです。人のこころの神髄を、比喩を用いて巧みに表現している点も共通しています。

次に法華経にある罪障について見てみましょう。

罪障とは

原罪は、現世の如何なる振る舞い、あえて仏教的に言ってしまうとどんなに修行しようが拭い去ることができない罪です。人として生まれてきた以上、それを最後まで背負って生きなければなりません。

罪障もまた、人が持って生まれてきているものです。ただ、原罪との違いは、漠然と人類一律ではなく一人一人に個々の特性があることと、修行によっては、罪障を軽減あるいは消滅させることに一抹の希望が持てることでしょう。

無始已来(以来)謗法六根懺悔罪障消滅

これは、祈祷の際、わたしたちが祈祷神に祈る際に挙げる言霊があります。人として生きてきた何時からかも知れない過去から、何時終わるとも知れない未来まで、口をはじめ耳や眼など六根に宿りし罪障を懺悔いたします。故に我を苦しめる罪障を何卒消滅させてください。と祈るのです。

こころが乱れたときやネガティブな思考に囚われたときにも、こころに唱えるとスーッと楽になる不思議な言葉でもあります。

まとめ

罪障とは、こころの曇りです。原罪もまた、禁断の実をとった後の人間の思考の曇りを示唆しているように感じます。共通している点は、その罪が、人々が神仏をこころの中から消し去ってしまったことから始まり、人類の歴史とともに続いている点です。

原罪や罪障の概念は、まず自分に以下のことを取り戻しましょうと言っているのです。

神なり仏なりが自分のこころにいますこと。

また、こころにある曇りは、無意識のうちに行動に影響を与えます。それが、無始以来というように、遠い過去から積み重なってきているものです。これもまた、原罪という概念にもまた罪障にも横たわっている人類共通の問題点でしょう。

わたしの出家した寺院でも、信徒さんたちが罪障を消滅させるため、様々な修行を行っていますが、なかなかその壁は厚くいっぺんにとはいきません。

二歩進めば一歩下がるならばまだ良いのですが、一歩進めば二歩下がることもあったりとても根気のいることです。また、自分の立ち位置がわからなくなったり、自制も自省もうまくいかず、混乱したり迷走してしまうこともしばしばです。

神仏が実際、罪障消滅の成果を求めているわけではありません。罪障消滅に取り組もうという姿勢、方向こそが大切なことなのです。

こころの曇りが晴れる日がいつか来ることを信じて
その晴れ渡ったこころで新たな人生の景色が見える様に
希望を持って日々研鑽していくこと

これは、わたしたちが人として生まれた理由でもあるとわたしは信じています。

今回は、原罪と罪障という前回に引き続いて、異なる宗教の基本概念について書いてみました。何か感じられるものがあったならば幸甚です。



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