老病死

はじめに

一旦筆を置くと言いつつ、性懲りもなくまた書いています。まあ、このブログの主旨は忘備録ですので、区切りは付けたものの、自分の心身の進展については、これからも、その都度書き留めておきたいと思っています。

さて、表題の老病死とは、最初に「生」を加えると、お釈迦さまが修行に至るきっかけとなった人間の4種の性です。このブログを読んでいる方々にも、「生」を含めて、その答えを得たいがために、まずはyoutubeや書籍、果ては宗教にまで求め歩いた人もいらっしゃることでしょう。

なぜ、人は老いて死ぬのか、病にかかるのか。この世において人として在れば、どこかしら頭の隅に、へばりついている答えのない質問です。

画像はイメージです。

失望させるようで心苦しいのですが、外から老病死の答えを得られることはありません。また、瞑想に取り組んで、内省から答えを得ようとしても、阿羅漢果に伴わない感得は、マインドコントロールに過ぎません。それは、老病死が個人の問題の特異点にあるからです。

わたしの場合、数々のお蔭さまを持って、「生」についてはようやく克服するに至りました。しかし、老病死については、まだ悟るまでには至っていません。かと言って、漫然とそのままにしておこうというわけでもなく、道筋はつきつつあると漠然と感じています。

生老病死の「生」については、このブログの他の記事を参照して頂くとして、今回は、特に老病死について考えてみました。

老病について

世の中には、因果とはいえ、老病に行き着くこともなく、亡くなってしまう人も数多くいらっしゃいます。その方が幸せという価値観は置いといて、わたしとしては、紆余曲折はありましたが、ほとんど大きな問題なく老いるまで生きてこられたことには感謝しかありません。

それでも、老いとは悲しいものです。与えられたものが機能しなくなっていく様は、あたかも愛用していたおもちゃを取り上げられていく幼子の気持ちです。一方で、次第に自分に覆いかぶさっていく老いに対して、愛おしさも伴った何とも複雑な心情を感じています。

走れなくなり、歩けなくなり、やがては立てなくなっていく。走って感じた風も、歩いて味わった季節感も、やがて、うたかたの夢と消えていきます。

画像はイメージです。

老いと病とは、死にいたる準備段階です。死王とは強力です。厳密に言えば、病の種によっては一時的に克服することは可能かもしれません。しかし、基本的に老いは病を呼び込んでいきます。これは抗えない事象です。

以前の記事でも扱ったように、老いても病で苦しみたくなければ、「アンチエイジング」でお金を使うくらいなら、こころを整えていく方が賢明です。それは、こころがカラダを先導しているためです。

死について

わたしは、死を考えたとき、次の経文を思い出します。

(真読)能令衆生 離一切苦 一切病痛 能解一切 生死之縛

(訓読)能く衆生をして一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたまふ

~妙法蓮華経 薬王菩薩本事品第二十三

なかなか強い言葉ですね。注目して頂きたいのは、「生死の縛」というところです。

上記の経文は、呪文ではありません。人は生きている内に、たくさんのモノや人、その関係性に囚われてしまいます。つかず離れずとはいかないものです。ここに書かれていることは、「法華経に書かかれている通り、こころを修めれば、生の縛も死の束縛からも逃れられますよ」という啓示です。

また、原始仏典においても、お釈迦さまの老病死についての言葉がたくさん残っています。中でも、わかりやすいところで、スッタニパータから、学生の質問に答える形で、お釈迦さまがおっしゃっている言葉から引用してみます。

いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、それが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは、老衰と死との消滅である。

~スッタニパータ 学生カッパの質問から

どちらもざっくりと言ってしまえば、老病死の起点は執著であることに他ならないと明言しています。執著する対象を周りから排除した環境に身を置きたい、これが、人が最終的に出家する理由です。

その点で、わたしには、まだまだこの世への名残りがあるのかもしれません。

まとめ

わたしは、老病は「死との問答」だと思っています。若い方々には想像しがたいことでしょうが、老病は、毎日のように「死への問い」を人に突き付けてきます。

死ぬということは、これまで形成してきた家族をはじめ、仕事やモノ、時間や空間、そのすべてを失うことです。物理的な言い方が許されるならば、地球が目の前から突然無くなってしまうことと同じです。そこに妥協はありません。

人は、根本的に喪失への恐怖を植え付けながら成長します。死への恐怖は、突き詰めれば喪失への恐怖です。この世における関係が、大きければ大きいほど、また多ければ多いほど、こころはこの世に繋ぎとめようと働きます。そのため、喪失の背景に潜む執著は、あらゆる面で苦しみを招くのです。

この記事をここまで読み終えた方には、結局、通り一辺倒な「執著の問題か」と残念に思う方が多いことでしょう。しかし、執著、煩悩を離れた世界へ、自分の身を置いてみて下さい。そこには、あなたが思っている以上に別世界が広がっています。

老病は疎ましい、死が怖い、そんな思いがこころのどこかにあるならば、煩悩や執著が、未だ自分の知らないこころのどこかに巣くっている証拠です。

爪に火を灯すような生活をしていようと、贅沢な暮らしをしていようと構いません。問題はあなたの中にあります。あなたが、あなた自身が、自分の中から煩悩が無くなったと感得したとき、老病死への囚われをも消滅していく道筋がみえてくることでしょう。

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