はじめに
今回は直近最後の記事とあって、少々長くなってしまいました。無我について、前置き等除いてお読みになる方は、「無我について」からご覧ください。
無我については、以前の記事内でも触れています。
この記事内では、無常観から無我へと導く試みをしています。無常を突き詰めていくと、自分ですら無常であることに気が付きます。何のことはない、「我」も変化しているのです。聖者でもなければ、「我」の変化次第では、苦しみにつながることがあります。
結論から言ってしまえば、「無我」とは、万人共通の今ある私たちの状態です。一方で、直訳すると「わたしが無い」となる通り、難解で受け入れ難い概念だと言えます。それをこれから、上記の記事とは別のアプローチから解いていこうと思っています。
これよりのお話しは、わたしの経験上感得したことを合わせて書いています。一般的な解釈とは論理的に矛盾もあるかもしれません。そこを踏まえて頂ければ幸いです。
我の追及
なぜ人が「我」について考えるのかと言えば、人の行動の出どころであって、この説明がつきさえすれば、人の生きていく意味も分かるのではないかとの希望があるためです。
誤解のないよう断っておくと、お釈迦さまの教えは、「我」をどう考え、どんな信条で生きていこうと、人に迷惑を掛けずに、楽に生きられれば結構ということに尽きます。しかし、現実を見渡してみると、人は、その性質上楽に生きていくことさえ困難です。生老病死をはじめ、まわりを見渡せば、自分の人生を自ら壊すばかりか、人を傷つけ、欲望に呆け、苦難する人々で溢れています。
「無我」とは、先だっての「縁-en」の記事内でも触れた「サンユッタ・ニカーヤ」や、他の初期仏典にでも散見される、仏教では重要なテーマのひとつになります。
「無我」とは面白い言葉です。直訳すれば「わたしを無くす」という意味になります。単純に考えると、もし、「わたし」が無くなってしまったら、社会生活が成り立たなくなってしまうことが想像できます。
昭和の時代、「無我の境地」という用語が流行った時がありました。思い返してみると、「無我」と「無心」とを混同しているのではないかと思っています。前節に書いた通り、「無我」とは、修行の目的地などではなく、万人に共通する状態を表しているからです。
ところで、「我」のような主体を考察した概念は、世界中にたくさんあります。、最初に、この世にある色んな「我」の観念から、代表的な例をふたつ挙げてみました。
我について
一般的な「我」
この世は一度切りというのが、この世の常識です。この概念は、命を終えると脳内の活動のひとつである「我」は消滅し、その後は何もないし、何も残らないというものです。とても分かり易く、現段階の科学の範疇においては、一番理に適っています。世界的に見ても、多くの人々がこの死生観を持って生きていると思われます。
一方で、一度きりで後のない世界ならば、その内、やりたい放題になってしまうのではないかという危惧があります。そこで、奪い合い、殺し合いの起こらない世界を担保するため、人間の安全保障に加えて、強力な法治制度が定着しているのです。
簡単に言えば、「自分に危害を加えられたくなかったら、他人へ危害を加えない。自由をはく奪されることもあるから、互いの尊厳を保って社会を維持していきましょう」ということです。しかし、限界もあります。
誰しも人の尊厳を尊重しているわけではなく、倫理観など脆いものです。捕まらなければOKとばかりに、犯罪はあとを絶たず、災害時などで起こる暴動や略奪など目を覆う有様です。それでも、銃砲等で自分の身を守らないでよいだけ、日本はまだマシなのかもしれません。
「死ねば無に帰する我」の懸念材料として考えられるは、「我」を特別に意識してしまう傾向になることです。一度きりの人生、何でも経験したい、手に入れたいと思うのが人情というものです。すこし知恵があれば、何らかの形で、自分の痕跡をこの世に残したいと思う人もいることでしょう。
自分の遺伝的な分身として子孫を残す方法が、最も一般的で分かり易い生きた痕跡です。しかし、人生、思い通りにはならないものです。自分の痕跡を、有形無形で残そうとしても、思った以上に苦しみを呼び込むかもしれません。
わたしも、娘がひとりおります。子孫のことなど全く存外で、ほぼ子供は諦めておりました。詳細は省きますが、娘が生まれなければ仏塔の下での出家の道はありませんでした。一般的な出家の道筋としては、少々矛盾していますね。
我と魂
もうひとつ代表的な「我」の例として、我を梱包した「魂」が転生し、人という器を乗り換えながら、時代を渡っていくという考え方があります。しかし、これはある種のファンタジーです。魂という言葉は、一般的に浸透し日常用語としていろいろな場面で使われてはいますが、実際に時代を渡るような魂というものは存在しません。これはお釈迦さまも明言されています。
このブログにも、亡くなった人々と何度かコンタクトしている記事があります。わたしは次第に、コンタクトしている対象が魂とは思わないようになりました。ケースにも拠りますが、肉体を失ってもしばらくは、我の情報の一部を包有した何かがあるように感じます。しかし、その何かは、あくまで「我」の名残りであって残像です。恒久的な魂のようなものだとは思えないのです。
余談ですが、両方の考えを統合したハイブリッドな考えを持っている方もいます。すなわち、時代を超え、魂を渡りながら、今世にも自分の足跡さえを残したいと、いささか欲張りな人です。高い身分を得た聖職者が抱きそうな価値観です。
魂があると信じることは、「我」そのものに執著しやすくなります。その点で、前述した「死ねば消滅」から起こるであろう「我」への執著と何ら変わりありません。難儀は予め避けておきたいものです。お釈迦さまが、「魂」を否定されるのも当然ですね。高い身分、恵まれた人生を得たのであれば猶更、特別な我、選ばれた我と勘違いしてしまって、執著はさらに大きくなってしまうことでしょう。
簡単にふたつの「我」の概念について挙げましたが、どんな立派な観念を持っていたとしても、最終的には個人の裁量に帰結します。どちらの概念を信条としている人でも、立派に生きている方はたくさんいらっしゃるからです。
ところで、「無我」に関係ある言葉として、「非我(ひが)」というものがあります。直には漢字変換できない非我は、一般には全くといっていいほど浸透していない言葉です。しかし、分かり易い点で言えば、「無我」よりも「非我」に軍配が挙がると思われます。
そこで、次にこの「非我」について考えてみましょう。
非我について
「無我」も「非我」も結局語源は同じで、パーリ語では[anattā](アナッター)といいます。「無我」が形容詞として使われた場合、「非我」は名詞として使われた場合の意味のようです。ラテン語など、古い聖典等に使われる言語などでありがちな品詞の変化による意味の違いですね。
古い漢訳の仏典上では、「非我」が主流だったようですが、北へと仏教が伝わって行く中で、「無我」が台頭してきました。「非我」とは「わたしではない」と直訳される通り、「無我」と比べれば、論理的にすんなり通る言葉です。
例えば、「執著に囚われているわたし」は、苦しみの中にあります。苦しみにあるわたしの状態は「本当のわたしではない」ので、すなわち「非我」となります。ここで、インド哲学の根幹的な概念である「本当のわたし(我)」が「アートマン(真我)」であるかどうかは、論客に任せることにして脇へ置いておきます。
仏教では、人の構成要素であり、執著するであろう対象には大きく分けて5つあり、それを五蘊(ごうん)としています。それらに執著している五取蘊(ごしゅうん)の段階にある「わたし」は、「わたしではない」、すなわち「非我」としているのです。このように、漢訳上「無我」から一字変わっただけの「非我」は、がぜん分かり易くなります。
ところで、このまま続けてしまうと、ああでもない、こうでもないと解釈に伴う試行錯誤を引き起こしていまいそうです。論理は、人を夢中にさせる毒牙です。陥ればなかなか抜け出すことができません。以下の記事でも書いています。
では、読解から少し離れて、「無我」という概念をわたしの感得から考えてみます。
無我について
「無我」も「非我」もわたしたちの今ある状態です。その我を形成していく要素は「縁」です。
わたしの感得では、人は生まれいずる時に、本人が前世までに持ちこしてきた業や功徳に従い、カラダやこころを形成していく準備が行われます。そして、成長するにつれて縁が起こりはじめ、この世での「わたし」が、現在進行形の形を取って次第に作られていきます。
ここで、出来るだけ理解して頂くように、編み物を例に、目に見える形で説明してみましょう。まず、説明の前に、「わたし」と「編み物」との間で、それぞれのキーワードを当てはめておきます。
- 編み手:?
- 編み図:前世までの「わたし」
- 編まれた物:「わたし」
- 糸:縁
編み物は、編み手が、編み図を見ながら、編針で糸を紡いでいきます。
糸に該当するものが、縁となり、編み図が、「わたし」を紡ぎ出す元となる、前世までの「わたし」の設計図です。
編み図を基にして、カラダと「わたし」と供に紡ぎ出されていきます。ここでの編み図は、時代を超えて継承していくもので、万人に用意されているものです。
あまり歪(いびつ)な編み図であれば、今世で様々な困難が待ち受けているかもしれません。編み図は、書き変えることが出来て、変えていく主体は、同時進行的に編まれ作られて行く「わたし」のこころです。
糸は決してまっすぐでも平坦でもなく、紡ぐ際には工夫が必要となることでしょう。手繰り寄せられる糸ひとつひとつに対処していった過程結果が、新たな編み図として更新されていきます。
やがて、生を終えると、糸は解かれ、新たに今世において作り直された編み図は、今世の結果として返されて行きます。新たに作り直された「わたし」の編み図が、良い出来だったのか、それとも悪い出来になったのかは、今世におけるあなたの行い次第ということです。
ここで、死に際の念の強弱により、糸は絡み、解かれていく途中で止まります。これが、「我」の残像-霊や幽霊といったものに相当します。
こうして、「わたし」の設計図に当たる編み図から始まる「わたし」の形成は、各個体独自のもので、糸が無くなるまで、すなわち縁が解消されるまで、転生は繰り返されていくのです。
編み物との違いを言えば、編み物の糸はせいぜい2本ですが、「わたし」に紡がれてくる縁は、100年近くと長きにわたる上に、複雑かつ膨大なこと。また、編み図の変更はまずありませんが、「わたし」の設計図は常にアップデートされるところです。
編み手や編針に相当するものが、自然現象なのか、擬人化できるようなものなのか、また、「わたし」の設計図である編み図がどこに保管されていて、管理者がいるのかどうかは、人知、霊感の及ぶ範囲を超えています。
極端な譬えで恐縮ですが、妻の趣味から参考にしてみました。
この譬えから、そもそも「わたし(我)」が確固としては無いことが、お判りいただけるかと思います。
「わたし(我)」は、今世において、生を終えるまで縁が紡がれ変化し続け、出会う縁にどう対処していくかで、新たに「わたし」の設計図を引き直して、何処かへと渡されていくのです。
まとめ
ところで、みなさんは日常の中で、どのくらいの時間「わたし」を意識されているでしょうか。
わたし事で恐縮ですが、数十年来、原因不明のめまいに悩まされています。62歳を過ぎたここ最近は特にひどく、買い物に出かける以外は、ほぼ引きこもりに近い生活をしています。
趣味もなく、周りに人もいない状況に身を置いていると、「わたし」を意識することが極端に少なくなります。一日のほとんどが、いわゆる「無心」の状態なのです。わたしの場合は極端ですが、サラリーマン等社会生活を営んでいらっしゃる方々でも、一日に何度か「わたし」を意識しない時間があるのではないでしょうか。
一日における「無心」の割合と、それを意識できる感性が、幸せの度合いに繋がっているような気も致します。
自分一人きりの時や何かに没頭しているときなど、自分を出す必要のない以上、「我」など登場しなくてもいいわけです。ここでの焦点は、いざ「我」の登場となった場合、それが執著ある「非我」でないことです。
「非我」も「無我」も、縁が紡がれるうちに「我」が変容していったもので、元は同一なのです。同じアナッターという語源を、ふたつの意味で漢訳された方は、きっと智慧のある方だったんでしょう。
いざ「我」が現われた時に、自分がたって(突出して)いては仕方ありません。目指すは、決して滅私・滅我というわけではなく、煩悩等自分を大きくしている余分なものを除いていく減私・減我というものです。
自分を大きくしている煩悩が無くなることは、最小限の自分にたどり着くことです。煩悩が無くなると、「我」に引っかかる事象が、この世からほぼ無くなることを意識することができます。そうして、自分がこの世で「仮の我」を得て、生かされていることに気付くのです。
「我」が表している実相は、どんな優秀な学者が論理的に考えても、決して結論に達することはできません。まず、自分に付いているすべての煩悩を除く努力をすること、「非我」を無くしていくことに尽きます。
その成果は体験でしか得られません。外からや周りからは、決してわかりません。人に伝えることなど、そもそも出来ないのです。修行も大詰めになってくると、やはり次のお釈迦さまの次の言葉が自分の中で次第に大きくなってきます。
犀の角のごとく独り歩め
最後に
このブログをはじめて2年足らず。今回で108の記事となり一応の終わりとなります。面白くもおかしくもない内容に付き合って頂き感謝しております。
このブログに書かれていることは、聖者を目指す際の心掛けを基調としています。
聖者を目指す段階にある人は、自分の意志にかかわらず、自ずと特別な縁が繋がっていくものです。従いまして、たまたま立ち寄ったほとんど方にとっては、記事のほとんどは用をなさないものだと思っています。
それでも、何度も申し上げて恐縮ですが、108の中の何れかの記事が、読者の方々が残りの人生を生きる上で、何かのきっかけに繋がっていけば幸甚です。