はじめに
最初にお断りです。仏教という宗教名は、文字通り「仏であるお釈迦さまの教え」に由来します。しかし、わたしがこのブログで書いていることは、仏教ではあっても、一般的に知られている「仏教」の名を冠した教えとは少し違っています。
敢えて言ってしまえば、世界的にお釈迦さまの教えが通りの良い名称を付けられ、独り歩きしているとみています。しかし、それが無意味だとは思っていません。お釈迦さま言葉の一部でも、触れることが出来ればよいと思っているからです。
読者が既に持っている仏教の概念からすれば、このブログの記事に対して抵抗を感じてしまうかもしれません。そこで、このブログでのお話しは、紀元前に現れた一人の比類なき賢者の言葉として、受け止めて頂ければと思っています。
さて、目に見えない因縁・因果が、この世に存在することは、意識的にも無意識的にも、うっすらと感じている方もいらっしゃることでしょう。
今回は、お釈迦さまの教えの中から、わたしたちが生きていく上で関係のある縁について、通り一遍の意味から今一歩進めて書いてみようと試みます。
縁とは
「縁があったら~」「縁結び」とか、縁に関係した言葉が日本語にはたくさんあります。縁は英語の直訳では、「destiny」となります。しかし、「destiny」とは、どちらかと言えば「運、運命」といった意味が強く、一般的に日本語で使われている縁とは、少しずれてしまいます。
一般的に、言葉とは概念を理解する上で重要な要素で、風土に培われた言葉であれば猶更です。縁に潜む深い意味も同様で、日本の歴史があってこそ理解することができると言えます。この縁に対する解釈は、仏教が日本に早くから伝わってきたからこその賜物です。前段の「お断り」のように、本来の教えから逸れてしまった日本仏教の元でも、人々に深く浸透している言葉もあって、決して無意味ではなかったのです。このような見えない縁を感じるという風土は、不思議と西洋人には見られない日本人の特性のひとつです。
しかし、縁そのものは、あくまで人との出会いや事象の内に、ふと感じるだけで、それこそ目に見える形でわかるものでもありません。そのため、日常的に使われている縁にまつわる言葉は、生活の中に添えられたスパイス程度であって、わたしたちの人生の根幹を成すとは、なかなか考え難いものです。
また、本題に入る前に、考慮しておいて欲しい点があります。「縁」の概念が、仏教伝来以来、日本の人々に根付いていることは好ましいことですが、それは、主に人と人の関係と思われているのが一般的です。
実は、本来の「縁」とは、まず自分を起点としていることと、自分の体そのものから、思い付き、思い方をはじめとした自分の思考傾向、そして自分を取り巻くあらゆる事象に及んでいることを頭の隅に置いてほしいと思っています。
縁の由来
縁にまつわり特に仏教に関連している言葉としては、縁起、因縁があります。特に因縁などは、仏教界隈から少し離れながら、日常当たり前に使われている言葉のひとつではないでしょうか。
お釈迦さまの言葉が記された古い経典の中に「サンユッタ・ニカーヤ」があります。この書には、蛇の誘惑や梵天の勧請など仏教界では有名な記述がありますが、今回のテーマである因縁についても詳しく書かれています。
ところで、前回の記事で、書写・原書からは真意が伝わらないことを書きました。
「サンユッタ・ニカーヤ」も同様、基本的に会話形式である上に、少々難解なところがあるため、思い切って読んでみても、なかなか真意が伝わってこないことと想像します。
特に「因縁」の部分は、教えの中でも重要なテーマであるがゆえに、お釈迦さまと対面して会話される方々のほとんどが、ある程度修行していて、予備知識を持った前提である点も簡単には読み取れない原因となっています。
縁の仕組み
各人が起こした縁には、その発端の性質によって繋がり、その仕組みは微細で複雑、この世の隅々にまで流れている血液と例えて良いほど、人の営みの根幹を成しています。
わたしたちの世界は、因果律といったのもが個々に繋がっていて、生まれる以前から始まっています。そして、起こした縁は、時代を超えて必ず果を結んでいきます。縁は、人々のこころから発動し、取り繕ったり隠したりすることはできません。
また、こころの中で起こらなければ行動しないため、こころに起きる思いの兆しが縁起の元となります。因縁とはこころの発動がキーポイントなのです。これは意外に思われるかもしれません。
何だか監視されているみたい
わたしが、出家して間もない頃、僧侶を辞めて俗世に戻ろうかとふと考えただけで、神々が枕元に立っては、バカにされていました。こころの中の思いの萌芽は、なかなか侮(あなど)れないのです。
断っておくと、思いまで監視されていたのは、わたしが聖者になろうと修行していたからです。一般の方は気にすることはありませんが、悪想念だけはなるべく持たない方が賢明でしょう。
縁を考えておいて欲しい理由は、善行と悪行は、人として生まれ続けることが出来ていれば、来世より先に深く関係していくからです。「人として生まれ続ける」としたのは、悪行の度合いによっては、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に落ちてしまうためです。中でも餓鬼・畜生界に落ちるのは、預流という境涯に至っていなければ、僧侶であろうと何であろうと思っている以上に簡単です。
悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のようにすぐに固まることはない。その業は、灰に覆われた火のように、徐々に燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
~ダンマパダ 71
このように、善行(善い行動)は功徳となって来世の人生を豊かにし、悪行(悪い行動)は相応の刃となって跳ね返ってきます。そして、何が善行なのか、何が悪行なのかを明確に示された最初の方が、お釈迦さまでもあるのです。
悪事とは
今年2024年になって、若者たちが安易に重い犯罪に手を染めていく様子を、わたしたちは目の当たりにしています。そこで、縁に関わる事例として悪事について特に触れておきたいと思います。
ネット上で暗躍しているのは、闇バイトと称される魔手のひとつです。悪いことをしても何とかなるとの思い込みは、欲望まみれの一部の政治家や資本家に散見されるような「やったもん勝ち」の現代の世相を表しているのでしょう。
縁を起こす元は、個々のこころに他なりません。ひどい目にあったり、欲望のツケを被ったり、物事が思い通りに行かなかったりすると、往々にして、人はこころの中に魔の道筋を作っていきます。それを手掛かりにして魔手が伸びてくるのです。これに加えて、前世までのカルマまで絡んでくると、事態はさらに複雑になってきます。
人は簡単に悪事を働くわけではありません。俗に出来心といいますが、出来心というのは幻想です。悪事への道筋は既にこころの中に敷いてしまっています。これを縁として悪縁を呼び寄せます。悪縁は強い磁力を持っています。ひとたび悪縁に繋がってしまうと避けることが難しくなります。
例え悪事がその場で上手く行こうとも、その審判が下るまでの時間が長いだけに過ぎません。前段のダンマパダの記述のように「徐々に燃えて悩ましながら」及んできます。起こしてしまった悪行は、必ず同等の刃で摘み取られます。縁の仕組みにあっては、「やったもん勝ち」の論理は成り立たないのです。
ここで、功利的で俗的な言い方をしてみれば、「先々身に覚えのない酷い目に合うから、今の内に悪い思い方を止めておきましょう」となります。
縁の終焉
縁の論理からすると、身に覚えのない不幸事、災難は、今に始まった結果ではありません。といって、たとえ不幸事にさいなまれたからといって、諦めたり、深く思い悩むことはありません。自分はいま、過去の因縁を解消するため尊い境遇にあるのだと思い直すことです。自暴自棄になったり、悪想念を巡らしたり、人生そのものを決して悲観してはいけません。傷口を広げることなく、じっと辛抱することです。
ところで、たくさんの縁と関わりながら生きてきて、その最後はどうなるのでしょう。
誰もが持っていて、一番分かり易い縁起は、この世に「生まれる」ことです。この世に「生まれる」縁は、必ず「死」を持ってその果を結びます。解脱という最終目標は、最初にして最後の縁である「生と死の因縁」から離れることです。同時に、これは輪廻の終焉を意味しています。
まとめ
縁は大きな循環を描きながらたくさんの人々に関係してはいますが、基本すべて自己完結です。自分の蒔いた種は、自分で刈り取るしかありません。これは、一般的にも知られている金言ですが、ここに、仏教的な観点と一般的な考え方の違いがあるとすれば、仏教においてはその時間軸が長すぎて、100年足らずでは補えないということだけです。
最後になりますが、いったい、このような仕組みを誰が考え、誰が執行しているのでしょう。神ではないことは確かです。神は、人との関わりが薄く、役割も違うためです。
わたしは、人間という生物の体系そのものが、縁を基にした因果律とその大きな循環から成り立っていると思っています。人は、生まれて、生きて、死んでいくだけではありません。人の世を繰り返す輪廻を出て、ひとつの物質的な段階を終え、次のステップへと移っていく大きな流れの中にあるのです。
そして、わたしたちのほとんどは、何も知らないまま、何も分からないまま、日々に忙殺され、人の本性のほんの一瞬をみているに過ぎません。お釈迦さまは、そこに縁という概念と共に、人が生きていく目標を示されたのです。