[文字]で残されたもの

はじめに

わたしたちは、さながら言葉を発するように文字を書いています。忘れずにメモったり、日々の出来事を日記に残したり、街中を見渡せば装飾された文字で溢れかえっています。

文字に記すという文化は、主流をネットへと移行しつつある今でも、わたしたちに根付いている習慣とも言えるものです。それもそのはず、文字の歴史は古く、何でも紀元前4千年の後期新石器時代頃に発明されていたようです。

楔形文字

人々が書き残す訳は、忘れないためであったり、貴重な情報を伝えたり、後に残すためだったりと多種多様です。もはや、当たり前すぎて改めて考えることもありません。

お釈迦さまの教えも同様です。現代では、文字としてたくさん残っています。これまで、各国の有志によって、たくさんの文献が、様々な言語で残されました。日本においても、昭和に入ってから、中村元博士等により、丹念に翻訳された仏教書を誰でも手に取ることができます。瞑想関連の書や心理関係の実用書などへの引用まで含めると、関連する資料の量は膨大となることでしょう。

一方で、お釈迦さまの教えを文字として残すことは、他の学術書や歴史書等とは事情が少し異なってきます。その点を、今回は記事にしてみました。

残された経緯

お釈迦さま亡き後、第一の弟子である魔訶迦葉尊者は、大切な教えが散逸してしまうのを危惧しました。その時の様子も文献として残っています。

魔訶迦葉尊者は弟子たちに呼びかけて、お釈迦さまから受け継いだ【法と律】を相互確認するため、後世において「第一次結集(だいいちけつじゅう)」と称される集まりを実施したのです。

その頃の、説法の伝承方法は「口伝」という形式をとっていました。当時のインドでは、文字に残すという習慣は存在しませんでした。第一結集が開かれた際でも、何かに書き記して保存されたわけではなく、比丘・比丘尼(男女の出家者)たちによって暗誦と確認を繰り返すことで、教えの共有を確実なものとしたのです。

最初に、伝承が聖典という形で「書写」されるのは、第一次結集から数百年を待つことになります。この「書き残す」に至った経緯はわかりませんが、他国の文化が流入し、記憶から文字へ残す文化へと移行したことによるものだと思います。

口伝の意味

声聞

当時の他の学術分野は知りませんが、お釈迦さまがいらした紀元前のインドにおいて、伝承は記憶に寄っていました。そもそも、仏教には、聞法(もんぽう)といって、教えを聞く修行法があります。仏教では、律をもとにして、法を「聞くことからはじめる」修行の段階を声聞(しょうもん)としています。

この修行法が、紀元前当時の修行習慣に沿って成立したものなのか、書き記さず傾聴することに特別な意味があることなのかはわかりません。他方、書くことで納得したつもりになり、何を聞いていたかも忘れてしまうことは、人にありがちな不手際です。一度しか聞くことができなければ、集中し、習得しようとする覚悟もできるというものです。

聞くこと:読むこと

聞くことと、書いたものを読むことには大きな違いがあります。出来事の記録やレシピなどの手順等について、読み手によって解釈が変わることはほとんどありません。しかし、仏教書など比較的難解で抽象的な表現が多く混じる文章については、読み手によって、書き手の意図した意味とは中身が変わってしまう可能性があります。

画像はイメージです。

一般的に、読解する際には、ひとつひとつの言葉について語源を辿り、行間を読んでいきます。特に古くて情報が限られた書については、単に「読む」ではなく、「解読」となります。「ああでもない」「こうでもない」と思考を巡らし始めるのです。根本分裂1をはじめ、仏教における様々な分派の発生が、それを物語っています。

お釈迦さまの教えは、ほとんどが対話集という形で残っています。説法というのは、相手の境涯に合わて行われますので、同じテーマでも内容が変わってくることがあります。また内容も、ある時は完結明瞭であったり、抽象的となったりもします。論理的に真逆であることさえあり得ます。

お釈迦さまに、その場で問い直すことが出来ない以上、後世に書き残された文章が難解で抽象的であればあるほど、どうしても読み手の解釈が入り込んでしまうのは仕方のないことです。

まとめ

紀元前のインドでは、文字として残す習慣はありませんでした。聞くことで、教えを自分の中に取り込み、お釈迦さまとの応答の中で消化吸収していったのです。

わたしは、お釈迦さまは、文字として残すことの不都合を鑑みて、文字として残す文化のない紀元前のインドを選ばれて生誕されたのではないかと思っています。

だからといって、わたしは、文字で残すことを否定しているわけではありません。ましてや、残された教えの解釈の違い等から、仏教の分派が興ったことを無意味だとは決して思っていません。文字として残すことは、後世のためにとても重要な仕事です。

「ああでもない」「こうでもない」でも構わないのです。その内容が正確か、不正確なのかの切り分けこそ無意味です。肝心なのは、漠然とでもお釈迦さまの教えに触れることです。そのためのお釈迦さまの教えへの入り口は、様々な選択肢があった方がいいと思っています。わたしは、お釈迦さまの教えに触れるきっかけを、善意で提供して頂ける寺院を尊重しています。

画像はイメージです。

お釈迦さまの教えや言葉の前にあって、宗派、宗教は関係ありません。お釈迦さまが唱えられたこころに重きを置く生き方を、いかに自分のものにしていくかで、今後の人生、引いては後世の自分の在り方が変わっていきます。

「文字として残された」お釈迦さまの言葉は、そのための入り口であると、わたしは信じています。


  1. 仏教教団において、釈迦の死後100年頃、第二回結集の後、それまで1つであった弟子たちの集団が、大衆部と上座部の2つの教団に分裂した出来事~wikipediaより ↩︎

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