はじめに
誰しも、こころの癖を持っています。こころを治めていくに当たっては、この癖が文字通り曲者(くせもの)で、何かと邪魔をしてきます。
しかし、こころの癖とは難しいもので、価値観多様化の時代、その曖昧さは増すばかりです。事の善悪の判断さえも人によって異なるような昨今では、こころの癖など話題になることさえありません。
公の場で些細なことで激昂する中高年が話題になることがあります。恥ずかしい話しですが、わたしも同様、カッとなってしまう思いの癖を持っていました。一応、公の場では慎む配慮だけは持ち合わせてはいましたが、家族には悲しい思いをさせてしまい申し訳なかったと思っています。
この癖については、自分自身はもちろんのこと、まわりの指摘からも知っていたはずなのです。ところが、知らず知らずのうちに、よくある性格のひとつだと意識することはありませんでした。幼い頃から父の激昂を何度も見ていたためもあってか、わたしの怒りは遺伝的なもので、仕方のないことだと勝手に思い込んでいたのです。
「知る」ことと、「意識する」こととの間には大きな隔たりがあります。出家するまで、人にはこころの癖というものがあるということを知りませんでしたし、自身の怒りの癖にも気が付くことはありませんでした。
こころの癖とは
内省の度合い
怒りのことを仏教用語で瞋恚(しんに)といいます。人が、人から卒業するまで、最後まで残っている代表的な煩悩のひとつです。怒りに火をつける要因は人によって異なります。しかし、そのほとんどは、物事が自分の思う通りにならないことによるものです。
怒りというのは、目に見えて分かりやすいのですが、なかなか表に出てこないこころの癖もあります。
例えば、自分を何かと責めがちだったり、高すぎるプライドであったり、周りの人の言動が異常に気になったりと、自分にしかわからないものが多くを占めます。それらをきっかけに、ある日怒り等他の感情へと変容してしまうことがあります。人の思いとは複雑で不思議なものです。
世間には、こころの癖を自分の個性として受け入れて、あたり構わず表に出してくる人々がいます。前節で挙げた高齢者たちなどがその例です。
年配になってくると、自分の体さえも、言うことをきかなくなってきます。日常茶飯事、思い通りにならないことばかりが増えてくるのです。そのうっぷんが蓄積されて、爆発してしまいます。
突発した怒りを猛省する内はまだ脈があります。しかし、人々の中には、概して、人に向ける怒りを天に変わっての制裁と思い換えたり、高いプライドを自分にふさわしい尊厳の現れとしてみたりするのです。自分を正当化するための逃げ道を、予め自分の中に用意してしまいます。
現代は、何事にも変わらない自分を尊重する傾向にあります。しかし、それは、行き過ぎた個人主義の弊害であって、ただ内省することへの心労から逃げているだけなのです。一旦、こころの癖の逃げ道を作ってしまうと、なかなか修正が効かなくなってしまいます。
こころの癖はどこから
わたしたちには、前世より持ち越している遺産がたくさんあります。前世の自分と今世の自分とは、決して同一人物というわけではありませんが、大まかな性格や顔かたちについては、ある程度引き継いでいます。
こころの癖とは様々です。それ自体が、すべて悪いわけではありません。問題は、こころの癖が引き起こす言動なのです。こころの癖が元になって「悪しき思いや行い」を引き起こしたことで、人々は輪廻し続けているといっても過言ではありません。繰り返し続ける人生というのは、苦しみに他なりません。
元凶になりそうなこころの癖を断たなければ、いつ表に出てきて、新たに悪い因縁を引き起こすとも限りません。この世界は、功徳が後の人生へ幸福をもたらすように、悪想念が起こした因縁も、いつまでもどこまでも付きまとい、自らの人生に不幸を呼び込んでしまうのです。
普通に過ごしていれば、そのことに気付くことなく、一生を終えてしまう場合がほとんどでしょう。しかし、因縁の作用とは不思議なもので、まったく気付く機会もなく一生を終えることは、ほとんど無いようです。
問題の本質
邪念や悪しき思いは、誰しもよぎることがあります。邪な考えが元となって、人の道まで踏み外してしまっては元も子もありません。そんな綱渡りのような状況を、多くの人々が何も考えずに過ごしているのがこの世の中なのです。
こころの癖を放っておいては、さらに積み重なっていきます。すると、ヒマラヤに降り積もっていく雪のように、本当の自分は次第に埋もれてしまい、やがて人としての存在すら見失ってしまうこともあるのです。
手遅れになってしまう前の内省、すなわち「こころの鍛錬をすること」
在家の人々に向けたお釈迦さまの教えは、これに尽きます。
その前に、
自分のことは何でも知っているという思い込み
まず、この思い込みの壁を取り払うことが出発点です。人は、自分のことが一番わかっているようで、決してわかってはいません。
傍から見ても目立つようなこころの癖ならば、知ることはできます。しかし、前節で述べたように、たとえ知ったとしても、意識することはありません。意識できなければ、変わろうとする動機すら思い浮かばないのです。
さらに、現代は個の時代です。周りに触れあう人が少なくなってきていては、自分だけで見出していくより他ありません。もし、親しい人が身近にいる境遇にあれば、自分のために言ってくれた意見を、こころを開いて真摯に受け止めることです。
まとめ
人類そのものを破滅に導きかねない欲望と悪行は、すべてひとりひとりのこころの癖が元になっています。しかし、たとえ知ることができても、次につなげていかなければ意味がありません。
こころの癖というのは、一長一短ではできない高い障壁です。せっかく前向きに取り組み始めても、やがて息が切れ、諦めてしまいます。
わたしたちにできることは、こころを内省し、邪な思いや言葉、そして行動に繋げないことです。この世はドラマでも映画でもありません。おとぎ話とはいきません。自分の思い通りにならないこの世の現実を、冷めて諦めないで、ただ受け入れていくことです。
その小さくても、怠らない努力が智慧を生み、その智慧はやがて功徳となっていきます。そして、その努力の結果はこころへと戻り、こころの癖は次第に薄れていく相乗効果を生むのです。
自分について、少しずつ気付きながら、得られた智慧によって、欲望や悪しき思いを少なくしていくことが、人として生まれてきた意味
こころを問うていく仏教において、すべての目標は、上記に集約されていると言えます。何も仏教と限らず、善行と悪行の所在を意識して生きることは、人として生まれてきた真理に他なりません。