はじめに
先だっての記事で、仏教と時間について書きました。
上記の記事では、仏教の根底に流れる時間観念と現代の忙しない時間事情を対比しながら考察しています。仏教、特に原始仏教においては、時間はとても重要な概念であることにも触れています。
今回も引き続き再び時間についてです。今回の時間についての記事は、わたしたちの時間との関係を、中世の日本仏教の時間の観念と合わせて考えてみました。
現代人の時間感覚
時間というのはいたって不思議なもので、物理学の世界以外を除いて、人々の間で普段意識される場面は限られています。わたしたちが時間を明確に意識するのは、どのような場面でしょう。
まず、人と約束がありますね。決めた時間に間に合うよう、時計を頻繁に見ることになるでしょう。あとは、仕事の場面における就業時間や納期など、人との関係から時間を意識することが多いと思います。
また、ひとりに限れば、過去に思いを馳せたり、未来を想像するふとした瞬間。あるいは知人や親しい人の不幸から、過去での関係を思い起こしたりもすることでしょう。
当たり前の様ですが、そこで共通して見えてくるものは、時間の範囲は今世、この世に限られているということです。現代人にとって時間を考える範囲は、正に生きている間だけとなります。
日本中世期頃の時間感覚
仏教始まりの頃
そもそも仏教とは、「仏の教え」と書くように、仏様であるお釈迦さまが、人間はどのように生きていったら良いかを周りの人々に遊説したのが始まりです。
お釈迦さまの持つ卓越した智慧と画期的な教えとが相まって、人々が引き寄せられるように集まり、あっという間に広がっていきました。紀元前当時の移動手段は徒歩であり、ましてや通信手段など存在しない頃のお話しです。取りも直さず、このような遊説だけで広まったのは、お釈迦さまあってのことでした。
当時、お釈迦さまの教えを聞こうとすれば、人伝えに頼るしかありません。志ある人々が、噂を頼りに猛獣も闊歩するような険しく長い道のりを、命がけで訪ね歩いた様子も想像できます。
そして、お釈迦さま亡きあと、その教えはいつしか宗教という組織の中に取り込まれ現在に至っています。
釈迦滅後から日本仏教へ
仏教が宗教と化して長い時間が経ちました。特定の「教え」を宗教化する目的を考えてみたとき、わたしはその教えを継承するためと、時代に合わせて効率よく広めるためだと思っています。
ある教えや思想を広めようとしたとき、ギリシャ哲学全盛期の頃のように、自分の思想を広場の台の上で演説しても、届く範囲は限られてしまいます。
人口が増え、価値観が多様化し、様々な言語にある世界において、いざ布教といって、お釈迦さま亡き後、遊説というかたちを取っても仕様がありません。仏教が時代に合わせて形を変えて、宗教として確立していったのも自然の成り行きなのです。
日本にも仏教は伝わり、主に大乗という形で広まりました。ところが、日本で盛んに興った宗教はお釈迦さまの教えを伝えるものではありませんでした。そこで広まっていったのは、現世利益を主とした信仰でした。
これには、当時の時代背景からくる、人々の時間の観念が深く関わっています。
生存時間との競争
中世の日本では、栄養価も乏しく医療といっても伝承に基づく民間療法が主体でした。そのため、人々の寿命はとても短かかったのです。加えて飢饉や戦乱など政情不安が続くと、大多数の人々が、現世において平穏な幸せを望んでも叶わない時代でした。
短いこの世の時間の中で、如何に人々のこころの平穏を与えられるか?
自然と中世の仏教はそこに注力していったのです。そこで、中世の仏教は現世利益、言い換えれば常世1利益(とこよりやく)とでも言えるような宗旨へと大きく舵をとり、あの世を含めた時間軸で考えざるを得ませんでした。
「常世利益」
文盲率も高い中世で、簡単で覚えやすい念仏や題目を唱えることで、何不自由ない平穏な死後の世界を担保しながら、引いては現世のこころの平穏を得ようとするわたしの造語です。
基本的に、お釈迦さまの教えが削げ落されたこの時代における仏教の在り方が、現在まで継承されてきたものとわたしは考えています。
一方、お釈迦さまの教えの中には、現世だろうが常世だろうが信仰者への利益という観念はありません。それは、こころの統制を目指す人の道筋からすれば、遠回りになるためです。
このように、中世において仏教が広まった出発点が、現代になっても仏教に対して利益を求める日本仏教の信仰の原点なっている一因だと思われます。
まとめ
あの世の時間観念を失った大乗仏教は、現代人のコスパやタイパに合わせるように、利益をはじめとした観光や瞑想などいいとこどりのある意味システマティックな宗教に変化していきました。
わたしは、時々中世における仏教のあの世を含めた時間尺度を想うことがあります。自分が使える時間を、約束や過去や未来に思いを馳せるくらいで済ませることのできる現代は、それだけで幸せなことなのです。
平和な風土が訪れ、人々の寿命も延び、手に入れることのできる時間は多くなったものの、そのほとんどが嗜好や趣味に費やされ、生き方やこころの問題に関わる仏教の主旨は、いつしか人々の意識から消えてしまいまいました。
お釈迦さまが亡くなって2600年。日本の中世における世情が要因とは思われるものの、以後の日本仏教は、お釈迦さの教えである仏教の根本を変容させ、いつまでもそのツケを払い続けているかのようです。
そして、檀家制度の悪手や廃仏毀釈等の国家政策も手伝って日本仏教が衰退していく中、そのツケを払い続けているのは、誰あろう日本の人々に他なりません。失われた30年と巷では話題になっていますが、仏教においては失われた1000年がここにあるのです。
- かくりよ(隠世、幽世)とは、永久に変わらない神域。死後の世界でもあり、対義語として「現世(うつしよ)」がある。~wikipediaより ↩︎