はじめに
ヤフーニュースで以下のような記事を見つけました。
それにしても、ミッドライフクライシスとは不思議な日本語英語の造語もあるものですね。まるで一大スペクタクル映画の表題のようです。
この記事のコメント欄も賑やかで、結構注目されているのがわかります。言葉自体は世間に浸透しているとはいえないものの、中高年が持ちがちな危機感には、みなさんそれなりに思う所はあるといったところでしょうか。
今回は、人生の大きなターニングポイントの時期でもある中高年で囚われてしまう思いについて、わたしなりの視点から書いてみたいと思います。
計画を立てるには短すぎる人生
わたしも60代に突入して早2年が過ぎました。一般的にわたしの年代近辺の60代と言えば、雇用関係がうまく運べていれば、一旦退職して嘱託で65歳まで継続勤務するか、再就職先で働いてるか、新たな就職口を探しているかだと思われます。
一方で、記事のミッドライフ年代の範囲内には、就職氷河期に直面した世代も含まれていそうですので、未だに不定期雇用を渡り歩いている方々も多いことでしょう。そんな方々の不安は、一段と大きなものになると想像できます。
仕事関係の悩みも色々あるとは思いますが、何と言っても体が徐々に変化していく年代でもあります。これまで何気に出来ていたことも、急に出来なってしまい、下るに任せてこのまま人生終えていくのかな?体の不調から、そんなネガティブな思考に囚われそうな年代です。
人生も中年から高年になれば、来し方を振り返り、行く末を思い悩むのは仕方のないことです。人生100年とか叫ばれてしばらく経ちましたが、あくまでキャッチフレーズであって、実際100年あると思っている方は少ないのではないでしょうか。
管に繋がれ床についたまま、長生きできても仕方ありませんので、障害なく動ける上限は、大病なくとも男性ならば70代中盤、女性で80代そこそこがいいところでしょう。
本当に短い人生です。来し方の選択の良し悪しを勘定している暇もありません。あまりに短い人生に頭の整理が追い付いていかないというのが実情です。
死んでしまったら何も残らないという認識がこの世界の常識なのですから、その切迫感といったらなおさらです。
もうひとつの要因
悩みも人ぞれぞれです。万人に共通した答えがあろうはずもありません。そんな中、気になっていることがあります。
わたしたち日本人は、小中高の12年間、一律一斉の教育を受けてきました。画一的な教育には一長一短があります。平均的な能力を持った市民を作り出し、管理しやすい社会を淀みなく運営するためには都合の良いシステムです。
一方で、出た杭を打つあまり、行き過ぎた校則や体罰などが問題になったり、突出した能力を持った人や普通と違った趣のある人は疎まれる傾向にあります。いじめられないために、生き抜くために、能力や個性を押し殺しながら、自分が目立たないよう、これまで生きてきた方も少なくないのではないでしょうか。
わたしが気になっている点というのは、そんな環境の元、小さい頃から培われてきた訓練といったものです。それは、意識的にも、無意識的にも周りの状況を伺ってしまうこと。自分と人とを比べてしまったり、目立たず周りに埋まろうと腐心する思いの癖です。
日本の空気感
昭和時代の真っただ中にあったわたしの少年期では、街中の情報が隈なく入ってきていました。
「何々さんは大きな自動車を買った」
「となりの娘さんは英語教室に通い始めた」
「何丁目の~ちゃんみたいなことしちゃだめ」
と枚挙にいとまがありません。
村社会などと古い言葉もありましたが、よそ者はすぐに見分けられ、自然の監視カメラが機能していたとも言える時代でした。わたしは、その空気感が当たり前だと思っていたこともあって、人とのつながりが次第に薄れていく社会に一抹の寂しさを感じていたものです。
当時はコミュニティーが色濃い時代の影響もあって、他人と比較してしまうことなど当たり前でしたが、他人と疎遠になった現代でも、SNS等のネット社会では、自分と他人とを比べながら承認欲求を求める傾向が常態化しています。人は、何かに繋がっていないと生きていけないものです。
また、仕事先等で、些細なことで叱責したり、私生活を含めてマウントしてくる人々は、比較される前に上位関係を構築しておこうという動物的な行動に囚われてしまっている例証とも考えられます。自分の弱さが伝わることを恐れるための代替行動ではないでしょうか。
この思いの癖の延長線上として、ネット社会等で顕著に見られる、人が見ていなければ、人に分からなければ何をしてもいいという極端な思考傾向が働いてしまうのではないかと、わたしは思っています。
このように人と比較する傾向の強い文化は、島国日本のように狭い文化圏で見られる傾向です。時代を経るにつれ、その功罪の功の面は失われていき、罪だけが顕著になってしまいました。
当たり前の人生とは
中高年ともなれば、どうしても自分の人生のこれまでの歩みさえも他人と比較してしまいがちです。おまけに、情報過多の時代、自分にとって理想的な生き方や業績、隣の芝生よろしく、まぶしく見えてしまいそうな他人の人生は、自分の耳や眼を通して矢継ぎ早に入ってきます。
しかし、隣の芝生は往々にして思ったより青くないのが実情なのです。自分の中で青くするのは勝手ですが、良いことは何ひとつないため、余計な思いは早いうちから拭い去ってしまうことが賢明でしょう。
現在のこれまでの人生とこれからの人生は、あなたが過去生で育み作り出してきた縁を結んだ結果なのですから、良いも悪いも受け入れて全うする以外ありません。
当たり前ではない不幸とも言える人生を送ってきた方々にとって、上記はとても受け入れがたい、むごい言葉と映るかもしれません。一方で、不幸な人生を送って来た方々は、何気ない普通の生活の有難さをかみしめることが出来るはずです。
当たり前とは決して当たり前ではないことを、無難に過ごせてきた中高年の方々には、踏まえておいて欲しい点です。
まとめ
とりあえず障りのない人生を送って来た方々にとって、比較することを突然止めることは難しいものです。いっそのこと外界の情報をすっかり遮断してしまえたら良いのですが、現状働いていたり、趣味や私生活での付き合いもあることでしょうから現実的には難しいでしょう。
人それぞれ、追い求めても得られない理想的な人生というものを持っていることだと思われます。
しかし、よくよく考えてみてください。その根底あるものは、欲望に他なりません。これが欲しい、あれも欲しい、ああなりたい、こうもしたい、と渇望が止められないからです。
欲望を諦めるのではなくて、治めていくこと。
自分のこころをじっくりと見つめながら、欲望に基づく思いの波を静めていきましょう。中高年では最も求められるプラクティスです。
一日の内たとえ短い時間でも、情報を遮断し自分と向き合う時間を作って頂きたいと思っています。ひとりじっくり自分と向き合うことは、たとえ瞑想というかたちを取らなくとも、中高年にとっては何より必要な時間だと思うのです。
情報にほだされながら、人生を締めくくっていく中高年にあって危機感を持っている場合ではありません。
大切なことは、慈悲と感謝を持ってこれまでの当たり前の人生は、決して当たり前ではないことを自覚し、そして欲望を治め静かな生活を営むことなのです。