はじめに
「わたし」とは、わたし(泰清)ではなくて、一般的な自分自身を指しています。
この世界は、各個人が持っている「わたし」を介して作り上げられています。この世界は、他に2つとないあなただけの世界です。また、あなたの行動を司るのも「わたし」です。ああしたい、こうしたい、思い出したり、悩んだり。どんなことも、「わたし」が始めようとしなければ何も始まりません。
一般的に「無意識に行動した」と言われることもありますが、その行動の前には、必ずわたしの知らない僅かな瞬間に、わたしが初動を起こしていることが科学的にもわかってきています。無意識に発動している「わたし」も、「わたし」に変わりはないのです。
お釈迦さまの教えの肝となるのは、この「わたし」を含めたわたし周りの世界観とそのコントロールです。今回の記事を含めて今後の「わたし」に関する考察では、わたしを取り巻く言葉として、次の4つを用意しています。
- 縁
- わたし
- こころ
- 気持ち
ちなみに、上記の順番は基底順になっています。生まれたことで縁が呼び水となってわたしを作り、こころと気持ちが順に重なっていくイメージです。
それぞれの言葉が「わたし」を形成する上で、どんな関係になるのか。今回は、下ふたつである〇こころと、〇気持ちについて考察してみました。
気持ちとこころ
気持ち主導の世界
こころと気持ちの乖離が、現代社会の罪のひとつだとわたしは思っています。気持ちを高揚させるのは、ほとんどが外界からの刺激です。現代の消費社会は、この外界の刺激に溢れかえっています。
気持ちが高揚すれば沈みもします。天国を楽しめば地獄を経験することにもなります。気持ちというものは、とても外界に左右されやすく、浮き沈みも激しくなりがちな性質のものです。
気持ちの高低は今世の輪廻です。気持ちの浮き沈みが繰り返されればされるほど、気持ちとこころとはさらに乖離していきます。人々の気持ちがこころから離れ表層化し、すっかり上滑りするようになってから半世紀以上が経ちました。
ほとんどの人々が、気持ちで世界を見るようになりました。気持ちで世界と接していると平穏な生活からは遠ざかり、高揚感を得ることはできても、幸福感を得ることが困難になってきます。気持ちで風景等を見ていては、時には美しい花も輝きを失って見えてしまうものです。
一方で、煩雑な社会生活が行き詰ってくると、さすがに解消の方法が模索されるようになりました。気持ちを何とかできないか?という問いを始めたのです。俗に、思い方・思考法などと称され、ハウツー本をはじめ、特集記事など目にするようになりました。
しかし、その場しのぎの思い方の操作によって、気持ちからこころを変えていけるほど容易なものでもありません。半世紀に及ぶ気持ちの支配は、その座をなかなか譲ろうとはしないのです。反対に、波が寄せては返すように、こころが気持ちに引きずられてしまい、返り討ちに合ってしまうことが多いことでしょう。
先だっての記事でも健康について取り上げましたが、こころの統制を疎かにしてしまってきた今世紀の人類共通の最大の癖のようなものだと思っています。
離れた気持ちからこころまでおろすには、それなりの訓練と地道さとが必要です。瞑想も効果的ですが一時的です。一般的に瞑想者も取り巻く世界は変わることがないのですから、なおさらその場しのぎになってしまいます。
気持ち主導の代償
こころも気持ちも「わたし」にあるものですが、現代ではこの後さらに考察していく「わたし」より先に、こころと気持ちの乖離の解消が大きな問題点になっています。この問題点は、産業革命から近代に入ってからのもので、実は比較的新しい現象なのです。
「わたし」に注力し、解脱どころではない現状があります。この点が、五濁悪世の本質とも言えます。
気持ちが主導権を持っていては、「わたし」までなかなかたどり着くことができません。現代の良心的な仏教施設は、禅定や説法を通して、まずこころに主導権を取り戻すことに注力しています。
豊かさを享受するために、本来の「わたし」の居場所を取り上げてきた現代人の代償は、とても大きいと思わざるを得ません。
気持ちが戻ってくるとき
気持ちで世界を見ながら日常生活を営む中で、気持ちがこころに降りてくる時があります。それは、不幸に見舞われた時です。
例えば重い病気にかかったとき、親しい人を亡(無)くした時、家計を支えていた仕事を失ってしまった時、etc.。不幸な出来事は人様々ですが、往々にして人生には何度か訪れます。
この時、人は自分を振り返り、自分に振りかかってきた不幸について、何度も自分に問い続けるのです。その問いから、これまでの人生を振り返り始めます。
こころの中で静かに行われるそんな自己反省は、知らない間に一種の深い瞑想状態にあります。不幸の出来事の後、自分自身に問いながら、その後の人生が好転していったという方も多いのではないでしょうか。
それは、毎日瞑想を繰り返していたためです。気持ち主導の世界観から解放されていた時間だとも言えます。
不幸な出来事は誰しも嫌なものです。しかし、この時が、気持ちとこころとが本来の距離感にある状態だと思っていただくと良いかと思います。
社会への影響
実感として、本当に「目先でしかものを見ない」人々が増えました。前節で述べたように、気持ちで世界を見ているということは、目先でモノを見ているということです。目先でモノを見るということは、モノの本質が見えてこないということです。
悪意を持った人間たちは、そうした人々の気持ちに付け込み、金品をむしり取ろうと躍起になっています。モノの本質が見えていれば一笑されて終わる悪意も、自らその火中に飛び込んで傷口を広げてしまいます。加害者は断罪すべきですが、手を変え品を変えて欲望に盲進する者たちの根絶は不可能です。自己防衛するしかないのです。
他方、モノの本質が見えなければ、終始疑心暗鬼にさいなまれ、他人を信用しなくなってしまいます。信頼感が不足し、不安にさいなまれた人の集まりは、何ともギクシャクした居心地の悪い社会を作り上げていきます。
こうして、表層的な気持ち主導の社会は、個人の損失ばかりか社会全体にも多大な影響を及ぼしていきます。こころの在所を失った人々が集う五濁悪世は、悪化の一途をたどっていくのです。
まとめ
欲望を煽る情報化社会。情報が全てを支配し司る世の中。今生きている世界の本性です。欲望を煽られて育った人々が老齢化し、現代の社会の根幹を占めています。
まず、これら情報化社会に埋没してしまった「わたし」を取り戻していくこと。前回書きましたアプローチの違う以下の個人主義社会の現状と合わせて読んで頂ければ幸いです。
人は老齢化すれば、誰しも固執になっていきます。わたしもその一人かもしれません。柔軟なものの考え方で自分を捉えることも難しくなってくることでしょう。
今求められることは、若い世代の人々の柔軟な行動意識です。欲望に激しくさらされてきた老人たちの悪しき側面を他山の石のひとつと捉え、若い方々には、こころを取り戻せるような静かな生活を心掛け、より良い未来を作り上げていってほしいと願っています。