はじめに
このブログでわたしが昨年決定的な過去生を経験したことを書きました。その後というもの、わたし自身はもちろんのこと、世界の事象、特に宗教や仏教や人々に対する思いなど大きく変化していきました。
そんな心境の変化は、記事の中にも表れていると思います。このブログの目的を書いている【ブログについて】も同じで、このまま、旧【ブログについて】を出していても気持ちが悪く、といって削除してしまっては、このブログ大本の目的である忘備録として片手落ちです。
そこで、【ブログについて】はそのまま残し、記事にて修正し公開しておくことにしました。その経緯についてもここにできるだけ簡潔に表記しておきたいと思います。
大乗仏教の出家者としての思い
このブログを公開した当初は、わたしが出家した寺院に興味を持ってくれる読者が、この世界にひとりでもいないものかという布教の一環のようなつもりでした。
その動機の元にあるのは、大乗仏教の成り立ちに関わっていて、出家者が衆生とともに悟りを積み重ねていくことを旨としているためです(個々の細かい理念は別といたします)。
大乗仏教の宗旨には様々ありますが、宗派を超えて唱えられる下記の言葉に、その思いが集約されていると思っています。
<真読>願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道
<訓読>願はくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん
わたしも大乗仏教のイチ出家者として末席に列してはいますが、ブログを公開することでその役目の一旦を果たそうと試みようとしていたのです。
旧【ブログについて】は、この心情から書いています。
心境の変化
修行の必要性
このブログで繰り返して述べているように、人々は、老若男女、どんな職業であれ、こころを修行していきながら煩悩を小さくしていく仕組みの中に生きています。
人々が修行に打ち込みしやすいように、出家という制度が現在でも残っているのはそのためです。しかし、残念なことに、日本における出家という制度は、そもそもの目的が歪曲していきました。
中世では、政変から外れ「家」を存続するためや、現代では、ほとんどが寺院の子息が寺の後を継ぐためなど表層的になっていったと言えます。このように現代の出家のスタイルは、お釈迦さまの時代に比べて、その概念を含めてすっかり変貌してしまいました。
一方で、何とか出家できれば、人としての修行が進むかといえばそうでもありません。
出家して寺院の中でも、在家にあっても、的外れな修行を繰り返していては、苦しさだけが増していくだけです。そのような例はわざわざ列挙しなくとも、社会に溢れかえっています。
修行に対する見方の変化
話しを戻しましょう。決定的な過去生を経験してみるとお釈迦さまの以下の有名な一句が、わたしの中に次第に大きくなっていきました。
この詩句は、スッタニパータ【第一章 蛇の章】の中の3章句に登場してくる言葉です。原文では、様々な人の行いが「犀の角~」の前文に付記されています。これは求道者の取るべき姿勢を、犀の角に見立てて示したものです。
この言葉が自分の中で大きくなるにつれて、修行への見方、引いては大乗の見方も変わってきました。
大乗には衆生と共に歩もうという精神が根本にあります。これを否定はいたしませんが、いつまでもというわけにはいきません。助走が付けば、後は本人の因縁次第、やる気次第なのです。
修行で大切なこと
前節で書いたお釈迦さまの言葉が大きくなるにつれて、各個人の持って生まれた修行に至るプロセスの段階を、尊重すべきだといった至極当たり前とも思える心境に至りました。つまり、個人の因縁の事情は様々で、人それぞれ信仰の時期があることにこころの底から感得したのです。
他方、修行を進めるに当たって、<聞法(もんぼう)>がとても重要であり、時空を超えて刻まれる聞法(もんぼう)を司る「お釈迦さま」の存在が、解脱への道を歩むためには何より必須であることを実感しました。
わたしは、聞法に関して、出家しても、法の中味が大切であって、五感としての「聞くこと」など特別意味がないとしばらく思っていました。ところが、法を聞くことと、話しを聞くこととでは天地の差があることが分かってきたのです。
お釈迦さまをはじめとして、お釈迦さま以前の時代にも肉体を持って世界に現れた指導者は、人類生誕以来、お釈迦さまを含めて7人いらっしゃいます。それら指導者からの直接の聞法がなければ、その教えはこころの底へと入って行かないのがわかりました。
今世においても志のある出家者や在家者が待たれるのは「次のお釈迦さま」であること。輪廻を離れるためには、その出現の場に弟子として修行できるかどうかにかかっていると思っています。
まとめ
過去生については、ほとんどの人にとってわからない世界です。今世で修行した成果は、失われてしまうと思うのも当然のことです。
実際は、こころの修行の成果は、簡単に言ってみれば人が死んで肉体とこころが離れる前に、各個人のこころへと繋がっている目に見えない核のようなところに記され、自分の後世へと引き継がれる準備を行います。
たとえ歩みは小さく成果を感じられなくとも、亀の歩みはウサギよりも早いのです。誰のためにでもなく自分自身のために、粛々と続けることが望まれます。
次のお釈迦さまの出現まで、数千年、数万年先になるかもわかりません。その間、文明が幾度か滅んでいるかもしれません。
仏教は時間の観念が日常の通念とは異なります。
キーワードはきっかけ
そんな悠久の時を想う時、今世の余命の中でわたしができることは、「次のお釈迦さま」の出現を見越して、このブログの記事に散見されるようにそのきっかけの糸口を示すことだと思っています。
今世のきっかけから、次に出現するお釈迦さまの弟子になるまでの縁を起こし、来る日には相応しい境涯に至っていることが切望されます。
バカげた発想に聞こえるかもしれません。わたしの出家前ように、普通に社会生活を営んでいる人々にとって、今世は今世だけであり、あの世も地獄もなく、今に生きるのに精一杯であり、お釈迦さまの教えにも触れることもありません。
そんな日常の生活の中で、教えに触れるきっかけをきっかけとして気が付ける方々は、これもまた現時点での境涯と因縁によるものだと思っています。