はじめに
以前の記事で「わたし」について考察しました。「わたし」というカギかっこで示した一人称は、一般的な自分自身を表しています。
上記の記事に見られるような「わたし」の解釈は、わたし(泰清)のような西洋文化にどっぷり浸されて育った昭和生まれのものにとっては、特に分かり難い、受け入れがたい考え方ではないかと思われます。
何も昭和生まれでなくとも、「わたし」はわたしであることはゆるぎない事実だとして、これまで生きてきた方がほとんどなのではないでしょうか。
そのため、上記の記事で「わたし」が幻想であって、改めて「わたし」についての認識が大切となるのか、なお一層不思議に感じられるかと思います。
そこで、戦後の日本人の代表的な「わたし」について、どのようにして「わたし」が変貌していったのか、日本経済の経緯がもたらしてきたものについて再考していきたいと思います。
「わたし」の変貌
西洋文化の浸透
戦後、急速に経済発展していった日本へ、雪崩のように西洋文化が入ってきました。
戦後混乱期における西洋文化は復興の先にあるものであり、羨望にも満ちた豊かさの象徴でもありました。特に米国のTV番組で繰り広げられていた人々の日常風景は、当時の日本人にとって生活スタイルの目標ともなっていたのです。
わたしも、小学生時代に夢中で見ていたTV番組といえば、「サンダーバード」をはじめ「奥様は魔女」や「わんぱくフリッパー」等海外のTV番組でした。「奥様は魔女」で魔女である奥様が住んでいた一般的な住宅の豪華さに、家族一同目を見張ったものです。
いつかあんな家に住みたい、いつかあんな豪華なディナーを食べてみたい、そんな風に思っていたのは、わたしだけではなかったでしょう。何気ない着こなしから生活のスタイルまで、西洋文化が津波のように押し寄せていた時代でした。
今でこそ一仏教徒の視点から当時のいろいろな事象について考えることができます。しかし、TVやラジオからの情報は、工夫を凝らしながら耳や目に直接飛び込み強く訴えてくるものです。戦後のモノへの渇望に満ちた社会の真っただ中にいる人々が、TVやラジオから流れてくる様々な欲望を煽る言葉に、あらがうことなどできるはずもありませんでした。
こうして、三種の神器と言われた家電製品をはじめ、自動車など数々の文明の利器は、日本の人々の欲望を次々と鷲掴みしていきました。当時の社会状況が、日本人のこころの中に欲望の火をつけ、それを炎上させるような装置の数々を普及させていったのです。
西洋的思想への転換
西洋文化の次にやってきたものは、個人を尊重した西洋的思想でした。それまで、社会やグループの和を尊重していた日本社会に、個人主義は新しく魅力的でした。何より、欧米の生活スタイルにとてもマッチしたドライで理論的な思想でした。
個人主義から派生していった考え方の代表例として次の3つが考えられます。
- 個性の尊重
- 価値観の多様化
- 誰しも主役となる可能性の追求
そこに共通して見えてくるものは「わたし」個人を大きくしていこうとする考え方です。経済的な成功に重きを置く「わたし」の西洋的なコンテンツは、実は「わたし」を縮小していこうとするお釈迦さまの教えからすれば逆を行く考え方です。
お釈迦さまの教えが人々を幸福に向かわせる方向ならば、強い個人主義を押し出す西洋的な思想は、不幸に追いやってしまう傾向にあると言わざるを得ません。
日本の現状
わたしは、昔へ戻れと懐古主義を謳っているわけではありませんし、ましてや個人主義を否定しているわけでもありません。個人主義は、その暴走の危険性を考慮しつつ取り入れていかなければならない、とてもデリケートな思想なのです。
個人主義は、資本主義社会において経済発展に都合の良い合理的な特徴を有しています。数十年を経てモノに満ち足りた現代になってもなお、西洋文化から芋ずる式に入ってきた西洋的な個人主義的ものの考え方は、人々の執着を呼び起こし、なし崩しに続けてしまっている現状があります。
米国の未来が日本の未来でもあるならば、これからも続いていく個人主義の膨張による混乱に満ちた社会は、火を見るほど明らかです。
現代日本では、極端な個人主義に抗うように、古来から日本にあった「社会の和」は違った形に変容し、見えない全体圧力としてコミュニティを覆うようになりました。
何とも息苦しい空気を生み出している[進化した村意識]のような独特の風土の広がりは、日本社会が本来持っていた文化的な資産を、非西洋的だからというだけで、ひたすら壊し続けた主に明治から昭和世代の負の遺産でもあります。
まとめ
最後に「わたし」に翻ってみましょう。日本の経済発展からはじまった西洋への極端な傾倒は、人々の渇望や個人主義の波にも乗って「わたし」を大きくしていきました。誰のせいというわけでもなく、自然の流れだったと思います。
現代は、個人主義から情報主義へと移行しつつあります。人そのものすら情報化し、情報の量が全てを支配するような時代になってきました。
ひたすら情報の渦に翻弄されてきた現代の日本人のほとんどは、この「わたし」そのものさえ見失ってしまっている状態にあると言えます。大切なのは、そんな「わたし」の現状に、まず気が付くことです。
そのためには、強いこころを養って、「わたし」が欲望や情報を基に作り出してきた様々な「わたし」に付いた副産物を、少しずつ取り除いていくことから始めていかなければなりません。
「わたし」を取り戻していく過程は、華々しいエンターテイメントの世界で、人々の注目を浴びた経験のある人が自身を取り戻す過程にも似ています。それは、彩られた自分が忘れ去られていく恐怖と、人々からの注目によって自分が大きく思えた快感から逃れられない心情が、どちらにも顕著だからです。
現代の仏教は、「わたし」を取り戻す役割を見失ってしまっています。宗教としての仏教が廃れていく中でも、「わたし」自身を研鑽していくことは、誰もが歩むべき一本道に変わりはありません。
時には文明の果実を楽しんでも良いでしょう。同時に、人として生まれた以上、どこにいても「わたし」を取り戻す方角を決して見失ってはいけないのです。