仏教と仏教との狭間で

はじめに

決定的な過去生を思い出したのが昨年の3月でしたので、もうかれこれ一年はゆうに過ぎたことになります。

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わたしが過去生において修行していた紀元前インドにおいては、当然大乗など存在していませんでした。その頃は現在でいう所の初期仏教に近い修行過程にあったのです。

過去生を思い出してからというものは、さながら過去生の自分の修行状況が現世の自分に次第に覆いかぶさってくるような感覚にあります。それに呼応するかのように、座右の書も法華経から原始仏典に変わっていきました。

だからと言って、大乗の宗旨や法華経自体を全く顧みることがなくなったわけではありません。大乗の祈りは人間の深い部分と通じることができますし、何より法華経は本当によくできた経典です。

法華経とめがね

しかしながら、わたしが所属している大乗の寺院に接するたびに、ぬぐい切れない違和感を感じ始めていることも確かです。

だったら、現存する初期仏教に宗旨替えすれば良いではないかと思われるかもしれませんが、それほど単純なお話しでもありません。

原始仏典とめがね

このように異なる教えを内包することになったわたしが、現時点で感じていることを今回はまとめてみたいと思います。

初期仏教と大乗仏教の違い

紀元前3世紀ごろに興った仏教の根本分裂以来、南伝仏教、北伝仏教という大きな流れで仏教は伝播していきました。

現在の初期仏教というのは、南伝仏教の流れから派生したもので、お釈迦さま存命の時代、お弟子さんたちがサンガという出家者の集団生活していた頃の戒律と教えを元にしながら、後に体系化し宗教化したものです。スリランカを中心に現存しているし、日本にも何か所かのその拠点があるようです。

一方、北伝仏教は大乗仏教としてアフガニスタンやパキスタン、中国から日本へと伝わっていきました。大乗仏教の中には開祖・宗祖だけではなく、お釈迦さまの教えを伝えてようとしているところもあって、初期仏教と共通する部分もあります。

上座部仏教徒

初期仏教と大乗仏教の大きく異なる点には、ふたつあります。ひとつは、わたしの寺院を含めて、大乗の一部の宗派では、信徒の利益(りやく)のために神を祀ったり、死者を弔ったり呪術的な儀式を取り入れているところです。

そして、もうひとつは、出家者の解脱を目的とするのか、それとも一切の衆生の救済を目的とするのかという点です。ただ、この点に関しては、初期仏教も出家者だけの範囲には留まってはいないようです。

大乗での神事

現代の初期仏教においては、目に見えない世界を排除し、戒律とお釈迦さまの教えを純粋に伝えることを目的とした宗旨が主要です。

そのため、初期仏教に該当する宗派では、原始仏典内に散見される神など目に見えない世界に関する記述に関しては、後世に付記されたものと解釈されているところもあるようです。

大乗仏教を通して見えてくる原始仏典の細部

目に見えない世界というのは、人が体を得て生きている限りすべてを見通すことはできません。

当時のお釈迦さまは全て見通せていたとしても、ほとんどの弟子たちが見通せない世界について、弟子たち同士で、ああでもないこうでもないと議論することが修行に際して邪魔になるのも当然です。

しかし、目に見えない世界を少しでも垣間見ることは、混とんで殺伐とした現代の世の中では特に、生き抜くための智慧や潤いをもたらす可能性は否定できません。

死者の行く先や、転生をはじめとした目に見えない世界の仕組みを、現世に生きる人でも知っておきたいものです。たとえ明確に判らないでも、じんわりと、うっすらと、あたかも空気のように、こころの何処かでぼんやりと感じるだけで、この世の見方に豊かな変化をもたらしてくれます。

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わたしの場合、目に見えない世界については、大乗仏教の寺院で出家していなければ知り得なかったことです。また、目に見えない世界を僧侶として体験することも、わたしにとって必要なことだったのでしょう。

大乗寺院で目に見えない世界を少しでも知ることができたことで、原始仏典に見られるいろいろな目に見えない世界に触れている部分も、初見からすんなりと自分の中に入ってくるように感じています。

まとめ

目に見えない世界からの啓示が、宗旨に符合しないからと無下にされても困ります。目に見えない世界と目に見える世界を最初から断絶させてしまっては、智慧を養う可能性も閉ざされてしまうというものです。

その一方、修行の入り口からいきなり、目に見えない世界を体験していくことには、その後の修行が進まなくなってしまう危険性もあります。

それは、あまり目に見えない世界に囚われ過ぎてしまうと、自分の立ち位置が見えなくなってしまうからです。これをわたしたちの間では、「霊感ボケ」と言っています。実際、霊感ボケに陥ってしまった兄姉弟子を知っています。

現代の初期仏教または大乗仏教においても、それぞれの良さを柔軟に取り入れてこそ活きるというものです。要はバランスです。目に見えない世界を感じながら、肉体を持って生きる現世の在り方、生き方に目に見えない世界からの智慧を利かしていくことが大切です。

今後、大乗仏教と初期仏教の狭間で揺れながら、わたしの微妙な立ち位置が、どのような経過を辿っていくのかわかりません。

しかし、これからも、これまでのように自分の信じている道を踏み外さぬように歩み続けることができれば、周りの状況や今世の結末は自ずと整っていくものだと確信しています。

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この記事を書いた人

様々な職業を経て、九州の山奥の寺院にて51歳で出家いたしました。
出家して11年、このブログは僧侶としての経験を交えながら、お釈迦さまの教えの忘備録を主に自身のために記録したものです。

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