解脱まわりのあれこれ

はじめに

日本では、成仏を解脱と同意としている宗派もあるようです。しかし、仮に成仏が「仏に成る」という文字通りの意味であるならば、解脱と成仏の意味は大きく異なります。

成仏とは、犬猫などを含めて地球上の生きとし生けるものが目指さなければならない究極の意識体?です。成仏という概念は難しく、これだという確信ある意味はありません。

これは、日本においては成仏という言葉を、安易に、そして日常的に用いていた弊害だとも思われます。成仏とは解脱よりも遥か遠いところにあるのは確かです。あまりに遠いところにあって、微かにも望めないのです。

解脱とは、人として到達可能な最上点の意識レベルであり、成仏に至る入り口に過ぎません。

現代では、死後など、どこ吹く風といった風潮ですが、きっと日本独自の伝統的な成仏の概念に、無意識のうちに安住しているところもあるのかもしれません。

今回は、成仏を取っ掛かりとして解脱なんかを中心に、とりとめもなく思いついたことを書いてみたいと思います。

人間の特性

意識

人の意識について考えたことはありますか?

人になぜ意識があるのか?

わたしは、所詮人は動物、それ以上でもなく、それ以下でもないというドライな考え方を若かりし頃抱いていました。

モノを食べ排泄し、交尾し子供を産む。一体どこに動物との違いがあるのだろうか。死ねば土くれに沈み、跡形もなくなってしまいます。

また、動物に接していると、ふと瞳やふるまいの中に「人」を感じる瞬間があります。飼っているペットに思い入れが強い方だと、大いに感じることがあるかもしれません。

わたしの立場や経験から言えば、人は言動から畜生に落ちることもあるのですから、動物が人のような意識を持っていて当然だと思っています。外は毛むくじゃらでも、中身はかつて人だったなんて当たり前のお話しなのです。

このように動物にも意識があるとすれば、人と動物との違いがさらに難しくなってきます。動物の中でも人だけが、固執した考えから様々な道具を使って自らの大地を壊し続け、自身のためだけに生きているようにも思えます。そんな人々は、やがて動物からやり直すのでしょうね。

画像はイメージです。

人という生き物をとくと観察していくと、このような身もふたもないことまで考えさせられてしまいます。結局、人も欲望に走ったりや自己本位に専心すれば動物と変わらない。動物の中に人の意識があっても何ら不思議はありません。

常日頃から、単なる動物とは違う生き方を心掛けたいものです。

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時間

話題はころりと変わりますが、今度は時間についてです。わたしが、時間を意識するようになったのは、60を超えた頃でした。老い先が見えてきたこともあるのかもしれません。

人には、時間を意識できる能力があります。これが何だか奇妙で不思議に感じるのです。そこで、時間について考えてみました。

人はなぜ時間を認識するのか?

物理法則の中で、熱力学第二法則のみマイナス時間が成立せず、人が観察してはじめて成立するいわゆる量子力学とは違った物質が見えるレベルの巨視的な物理法則です。物理学のアプローチでは、人と過去に逆戻りする時間は相容れないようです。

この世界では、年老いて消えていく宿命の人間だけが時間を認識しています。前節で、動物の意識について話しましたが、人以外の動物には時間という認識はなさそうです。恐らく?

時間と人との関係をみてみると、次第に時間を区切る頻度や精度が増してきています。

時間を区切り効率的に動くはずだった人々が、いつしか反対に時間に追われるようになりました。物や思いばかりでなく、時間さえも、自分から手放すことができなくなってきたのです。

画像はイメージです。

時計がなかった頃の人々は、時間をそれほど意識することもなく、ましてや時間に追われるようなこともなかったことでしょう。

現代では、人の意識の中で時間とのつながりを密接にしていったために、離れるべき執着の項目をさらに増やしてしまったような気も致します。

まとめ

五感に囚われ、その奴隷となってくると執着となります。執着の対岸にあって行き付く先が解脱です。

一方で、人は五感に依存し、動物的なふるまいに没頭することで安心感を得ていることもあります。この思いが大きくてなかなか離しきれずに、動物としての生(せい)を繰り返してしまうのです。

また、現代人は、時間さえも生活の中に取り込んでいきました。時間に追われる生活もまた苦しいものです。

紀元前、このように目先に囚われ、動物的宿命に苦しみ喘いでいた人間に、ひとつの光明へ至る道筋をもたらしたのが、自らも人となって現れたお釈迦さまでした。

解脱よりも離脱が適当な気も致しますが、この言葉は「離」する前に「解」することを示唆しています。自分のことがわかれば、人のこころも自ずとわかるというものです。

解脱とは強い言葉です。社会では、解脱と使うだけで人から嫌煙されるのがオチでしょう。みんな仲良く動物として楽しみながら生きて行く面白さもわかりますが、長い目で見ればつらいことばかりです。

早く人から離れた存在を目指したいですね。

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この記事を書いた人

様々な職業を経て、九州の山奥の寺院にて51歳で出家いたしました。
出家して11年、このブログは僧侶としての経験を交えながら、お釈迦さまの教えの忘備録を主に自身のために記録したものです。

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