はじめに
前回、幸せとは何かを書きました。結論として、こころを平穏に保つこととしました。一方で、きっと多くの人々が「平穏」の持つ意味について誤解すると思われます。そこで、補足しておきたいと思います。
平穏とは、喜ばない、悲しまない、すなわち喜怒哀楽を出さない思わないということではありません。喜怒哀楽は、怒りを別にして、喜哀楽がこころを潤すものなら、素直に感情に従うべきだと思っています。
それが人らしさでもあり、決して機械仕掛けな平穏を推奨しているわけではありません。感情を押し殺すことと平穏を保つこととは大きな違いがあります。また、不幸にある人に慈悲を感じるためには、自分の中に相手の感情の機微を共感する器も必要です。
平穏とは、感情に行動を左右されることなく、その振れ幅を出来るだけ小さくしていくことです。喜びも大きければ有頂天になってしまいます。有頂天にもならず、怒りや悲しみにもとらわれ過ぎないためには、強いこころが必要となるのです。
この平穏の持続こそが幸せであると、前回記事にした次第です。
今回は、こころを平穏に導く方法について多方面から迫ってみたいと思います。
仏教のあれこれ
何度も繰り返していますが、仏教とはお釈迦さまの教えです。
日本で仏教といって思いつく言葉として、お墓、成仏等のキーワードが思い浮かぶかと思います。しかし、お釈迦さまは「成仏」や「死後」についてお話ししてはいらっしゃいません。
特に「成仏」というパワーキーワードは鎌倉時代に興った大乗仏教が創り出した日本独自の思想で、当時飢饉や戦乱などの苦境にあえいでいた庶民を安心させるための方便です。
また、お釈迦さまはそもそも目に見えない世界についても触れられていません。「無記」といって、修行と関係ないものについては言及されていないのです。
それは、目に見えない世界が在るのか、それとも無いのか、「人同士がいくら議論しても結論の出ない答えを探る暇があったら修行しなさい」これがお釈迦さまの基本姿勢だからです。
しかし、様々な神仏をはじめ、幽霊から生霊まで、目に見えない世界にまつわる様々な出来事については、わたしも経験していますので、これを否定することはできません。
一方、お釈迦さまは、神仏や幽体まで目に見えない世界について、きっとすべてお見通しであったと確信しています。
お釈迦さまは、見えている人々の背景をはじめ、目に見えない世界を含めて、すべての世界を把握した上で、人にとって何が有益なのかを厳選して説いていらっしゃったのです。
庶民に通じる仏教
お釈迦さまの教えは、その字面だけを追って理屈を理解しようとしても難しいものです。また、新しい思想、難しい教えや考え方というものは、新しいというだけで庶民を遠ざけてしまいます。ましてや難解となれば、誰もが嫌煙するのも当然です。
これは、仏教が伝わった頃の日本においてもそうでした。聖徳太子が、日本に入りたての仏教の普及に尽力したお話しは有名ですね。
鎌倉時代になって、宗祖と呼ばれる伝統仏教寺院の宗派のトップが、当時の時代背景や庶民の実情に合わせて、大乗という分かり易い教えとして登場してきました。
これが、ガラケーと同じように、日本において仏教が進化し、聖徳太子の時代とはまた違った、庶民のための(仏教)の始まりでした。
昨今では、(仏教)そのものの衰退の危機感からか、当時の宗祖の教義とは別に、時代に合わせてもう一度お釈迦さま自身の教えを見直してみようという動きもあちこちで興ってきています。
この日本における宗教の潮流は、インドにおける宗教の歴史にも似ています。
インドの場合
現代において、インドにおける宗教の主流はヒンズー教です。
インドにおいてヒンズー教が仏教に変わって盛んになったのは、仏教以前にあったバラモン教が再考を図るため、昔からある土着信仰と結びつけたためです。日本において同じ試みをしてきたのが、前節のように「成仏」を打ち出した大乗仏教でした。
しかし、インドと違って、日本の土着信仰は、浄土思想よりも八百万の神々を信仰する神道に古くから結びついています。仏教はそもそも日本の土着信仰ではないのです。
そのため、日本の鎌倉仏教は、江戸時代に始まった檀家制度などの悪手も手伝って衰退していき、現代では神社へ足を運ぶ庶民が増えてきています。
これが、同じガラパゴス的宗教でも、インドにおけるヒンズー教のように広く普及しなかった理由です。これから先も仏教が廃れ、神道が人々に受け入れられていく傾向は変わらないでしょう。
このような歴史が示している通り、人々は、いつの時代も、難しい教えや目に見えない世界の分かり難さよりも、祈って安心できる気軽さを求めているのです。
仏教に落ちる陰
世界に文明が興って一万年ほど。人類は、何とか文明を保ちながらも、殺し合い、奪い合う歴史を重ねてようやく今に至っています。未だ世界平和というには程遠く、これからも険しい未来が待ち受けていることでしょう。
各人のこころが進歩し変わらない限り、過ちは繰り返されるものです。
一方で、人々は、政治制度の確立や科学の進展によって、平和で豊かな世界が実現できるという幻想を、今でも抱き続けています。
世の中を動かしているのは、一人一人のこころです。人がこころの完成を目指す先に、世界の平和や豊かな社会があるとしたのが、他ならないお釈迦さまなのです。
まとめ
平穏な日常にあって、お釈迦さまの教えに出会うことが、長い人類の歴史において如何に奇跡的であるのかを、これから先も人々が気付くことはありません。
その時代時代で、教えを読誦し目覚めた者たちが、新しい世界へと旅立つきっかけを創っていきます。(何だかニューエイジっぽい言い回しですねw)
教えに触れることは誰にでもできます。そこで疑念を持って遠ざけるか、気付いて受け入れるかは自由です。
ここにお釈迦さまの教えの真髄があります。広めようと宣布しても仕方がありません。わたしは、「お釈迦さまの教えー仏教」を選んだ者たちが、すなわち選ばれた者たちだと思っているからです。古来より、選ぶべき宿命にあるものが選び、そして実践していくのです。
お釈迦さまの教えは宗教でも思想でもありません。それは身近な概念に結びつけて安心しようとする人間の思いの癖に過ぎません。
ただ宗教だとの思い込みだけで、敬遠していてはもったいないお話しです。仏教の真髄は信じて受け入れた者だけが享受できるところにあります。
これまでも、これから先も、三悪道を足元に置きながら、動物としての生を甘んじて繰り返していくのか、それとも人より先にある世界、その真の幸せを得る道を選ぶのか、お釈迦さまの教えは、常にその分岐点としての門を開き続けているのです。