はじめに
季節的にだいぶズレてしまいましたが、表題は日本では知らない人がいないくらい有名な節分豆まきの掛け声です。
最近では、あまり聞かれなくなってきたものの、この言葉を見るだけで老若男女問わず喜んで叫んでいる様子が思い浮かびます。
地方によっては、鬼や福の解釈や習慣によって、「鬼は内、福は外」や「鬼は内、福は内」となるところもあるようです。
豆まきも、立春の日に一年の無病息災を願う祭りのひとつです。今回は、この豆まきの掛け声から、思い起こさせる仏教の考え方について、少し掘り下げてみたいと思います。
外道と内道
鬼も福も昔語りで、日常にちょっとした異世界を経験できるイベントなのではないでしょうか。表題の掛け声は、一般的に言うと邪悪なものは外へ、福なるものは内へといった意味だと思います。
鬼や福をどう解釈するかで、地方によって異なる掛け声になっているのでしょう。仏教徒でもあるわたしにとっては、「鬼は外、福は内」とは、次のように聞こえてきます。
鬼は外にあって、福は内にある
仏教は全般的に、内省する【内道】の教えです。過去の記事でもお話ししたように、自分の内側に仏を見出し育てていきます。
この内道に対して【外道】という言葉があります。言い出しっぺはわかりませんが、昭和の頃、「この外道め!」と吐き捨てるような暴言がありました。しかし、元々外道にはこのような非難の意はありません。
外道とは文字通り外に対して道を求める人、それが転じて仏教以外の信仰者を指します。
外道とは5~6世紀に起源を持ちますが、ヴェーダ思想に外れた者たちに付けたレッテルが次第に極端な解釈となって、道に外れた者を非難するような意味まで持ち始めた経緯があったのだと思われます。
外道による不都合
暴言に使われるような意味ではないから、良い意味かというとそうでもありません。考え方にも拠りますが、どうしても外道には不都合な部分が伴ってしまうからです。その要因のひとつが、人は信奉するものに対して依存する傾向にある点です。
そもそも道や生き方を求めない人々にとっては関係のない話しですが、人は生きて行く以上、拠り所となる何らかの指標が必要なものです。外道とは、外に指標を求めます。
わかりやすく言ってしまえば、生きる目的や生き甲斐も広い意味では外道と呼べるのかもしれません。
これら、指標というものは変化していきます。それは、社会情勢や価値観の変化もあるだろうし要因は様々です。もちろん、内に指標を求めても変化しますが、その変化は外にあるものの比ではありません。
しかし、要点は、外に道を求めることそのものではなく、その指向にあります。
例えば神を例に取ってみましょう、一神教でも多神教でも、通常神は自分の外にある絶対存在を指します。日本のパワースポットに見られるように、利益を神域に求めて、巡る人々も大勢います。
そのほとんどの思惑は、宝くじ感覚のような漠然としたもののようですが、問題はその行動そのものではなく、現代の人々に根付いてしまっている外道指向にあります。自分の意志や行動を外からの情報や価値観に依存し、内省することがない新しい思いの癖を作り出しているのです。
外にあるものは様々に変化します。そうして、外からの情報によって、こころの内も追従していきます。
委ねているものが変化すると、その影響をもろに受け、自分の内面も七転八倒していくのです。このことは、宗教だけの話しに留まりません。
外道の不都合な点は、外の激しい変化を内に持ち込む癖を創ること
内道のススメ
外道は言わば、他力本願です。他力が叶わなければ、こころに罪を作っていきます。それが、不浄なわだかまりとなって積み重なっていくのです。
外に鬼を作ってしまうと、自ずからも攻撃的になるだろうし、期待していた形ある福が見えなくなってしまえば落胆も大きいでしょう。お釈迦さまの教えでは、鬼も福も内にあるという考え方です。内に鬼が生まれれば消せばよいし、福を見出せなければ育てれば良いのです。
その意味からすれば、「鬼は内、福は内」の掛け声が、仏教的なのかもしれません。
自分次第で、こころの中は鬼にもなり福も大きくなる。
これを、鍛錬して習得していけば、自然とこの世は生きやすくなっていきます。
まとめ
この世のすべての財福はこころの中にあります。財福の評価やその価値観は問題ではありません。人が生きるために必要な宝は、万民万国共通なのです。また、外に作り出した鬼は、ふとしたきっかけでいつでも自分の身内に入ってきます。
現代の世相はとても忙しく、変化の激しい時代です。良い意味で、万物は流転することを目に見えて実感できる世界になりました。
といって、表層にばかり囚われていると自分を見失いやすい世の中であるとも言えます。外道に生きていれば、こころは落ち着くことがありません。鬼も福も内にあると自覚して、外の刺激や誘惑に惑わされないことです。
そこに気が付くどうか、思いに至らるか至らぬかは、幸福に直結しています。
表面的な言葉遊びに留まることなく、それをこころから感得できるかどうかに、人の世に生まれた成果がかかっているのです。