仏種を意識する生活
仏種の大切さ
人とのかかわりや自分の人生の様々な浮き沈みの中で、仏種は押さえつけられ、時にはなくなってしまうことさえあります。
まわりの様々な声を自分の個性が悪い意味に捉えて、それを積み重ねていく癖が仏種を壊してしまうことを、前段の仏説観普賢菩薩行法経の経文でも諭しているのです。
この弊聲を出して我が識神を勞し、三途に墜墮せしむ
自分自身だけでなく、自分の感情や欲で他人の仏種まで貶めてしまうことは、何も特別なことでもありません。どこにでもありそうな日常の風景化しています。
些細なプライドからのほころび
人は矛盾したこころの動き方をします。安らぎや平和な生活を望みながら、些細なプライドや感情からそれを壊してしまいます。
どんな状況にあっても、自分自身や他人の仏種を死なせてはならない
これを「謗法の罪」といって、人が犯す最大の罪です。
仏種がなければ、人は怒りや欲望へと暴走し、生活の基盤は壊れてしまいます。その根本である仏種は何より大切なものです。
一個の人のこころのバランス崩壊は、争いごとや平和が壊れる最初の火種となります。いつまでたっても、この世から争いごとがなくならない根本がここにあります。
仏種を育む
お釈迦さまは、このような人間世界から解脱するため、長い時間を費やして育まれた強大な精神力で、苦から自らを解き放ちました。
私たちには、お釈迦様と同じように、創造主からその種、仏種を心に宿してもらっています。これを生かして育てなければなりません。
仏種を育てたいというこころは人の尊さ
仏種は、人に囲まれ社会に揉まれて、他人ばかりでなく自分まで責めていくと、いとも簡単に疲弊し消えていきます。
しかし、社会的な生き物である人は、一人では生きていけません。ひとりが一番と「自分だけ良ければそれで良い」では、人としての成長は止まったままばかりか後退してしまいます。
まとめ
仏とは雲の上にある手の届かない存在ではありません。
誰もが心の中に、識神である仏種が住んで、仏となる準備を整えようとしているのです。僧侶が相手に向かって手を合わせるのは、相手の中に潜む仏に対して敬愛を示しているのです。
生い立ちや育った環境が違う他人はもとより、夫婦、親子でさえも、それぞれの考え方が違います。
恫喝や暴力はもっての外ですが、理屈や自分本位の考え方で相手を封じ込めてしまうことは、自分ばかりか相手の中の仏を苦しめていることに他なりません。
自分の思いの癖に注意しながら仏種を育てていくことは、取りも直さず、自分が複雑な社会の中で楽に生きるための最良の手段なのです。
仏種を育てることが、楽に生きるための最良の手段