はじめに
誰しもこころの中に仏の種があります。
このブログの中では、この仏の種をそのまま仏種(ぶっしゅ)として言い表しています。
ここでいうところの仏とは、お釈迦さまを特定しているわけではなく、人が目指す最終的な境涯を示しています。
ところが残念なことに、仏種の存在さえ気付かずに人生を終えてしまう、そんな人々がほとんどなのです。
こころの中の仏種は、人によってその大きさ(成長度合い)が異なります。
生まれたときから大きく成長している人もいれば、いちから始めなければならないような人もいます。中には、せっかく大切に育てた自分の中の仏を殺してしまう人もいます。
自分の中にあるこの仏種を育てることは、人が生まれて一生をかけて取り組む仕事です。
今回はこころの中に潜んでいる仏種について、少し詳しく書いてみました。出来るだけわかりやすく説明したつもりです。長すぎて読むことだけで一苦労かもしれません。
辛抱強く読んで頂き、その真意が少しでも伝わりましたら幸いです。
仏種の役割
仏種と法華経
仏種とは何かをたどっていくと【識神(しきがみ・しきしん)】という言葉にあたります。陰陽師(おんやうじ)の命令に従う鬼神も同じ名ですが、それとは真逆の意味ですのでご注意を。
実はこの識神、経文にも登場してきます。
出此弊聲 労我識神 墜堕三塗
~妙法蓮華経 仏説観普賢菩薩行法経
この識神が登場する「仏説観普賢菩薩行法経」は、法華経で修行するものが心得るべき懺悔の法門です。この中には、生きていくための指針が宝物のように眠っています。このサイトでも、多く登場してくるわたしも日常心がけているお経のひとつです。
お経に書かれている意味合いについては、後ほど触れたいと思います。
色あせる仏の種
さて、この仏種ですが、人は日々葛藤の中で生きています。日常のささいな出来事でも、心の中に葛藤が沸き上がるのが人の常です。その葛藤する心の中に、度々登場してくるのが仏種なんです。
例えば、怒りや欲がこころを圧倒的に支配してくると、多くの人が「落ち着け」と自分に言い聞かせたり、気を紛らわせようと色んな努力をします。
また、人の悲しみを自分の悲しみのように感じたり、人の苦しみに共感するような感情もこの仏種によるものです。
しかし、価値観も多様化して、人はこの大切な仏種を育てることから次第に遠ざかっているかのように思えてしまいます。
今の世の中は、混乱に満ちたこころの寄る辺のない不安定な世界です。悲しみを悲しみとして、苦しみを苦しみとして素直に感じることさえもできないような複雑化した価値判断が、人を深い深い闇へと追いやってしまっています。
そんな世界の中において、癖づいた人のこころは出口のない迷路を彷徨っているような状況です。
でも、大多数の人たちが、それでいいとばかりに忙しさや欲望に埋没して生きてしまっているのです。