仏の教え 楽に生きる

わたしの宗教観

わたしの宗教観

はじめに

「宗教はいらない」

「信仰なんて意味がない」

そんな声が度々聞こえてきます。僧侶がその役割を見失い、仏教をはじめとした宗教そのものが疎まれるような時代、わたしなりに宗教について、改めて考えてみました。

カオスな人生

数十年の長い人生、自分では手に負えないような困り事は度々おこなります。困り事がないまま、平穏に人生を閉じれたらどんなにか良いでしょう。例えば、昨今の物価高は、ほしいものも買えず、食べたいものも食べれず辛抱を人々に強いています。どこかへ行って、気を晴らすにもこうも燃料が高騰してはままなりません。辛抱で済めば良いですが、家庭の事情次第ではそれではおさまらないこともあります。

このように、人生山あり谷あり、人は病気もするし、ケガもします。どんなきっかけから厄災やハラスメントが振りかかるかわかりません。困り事から始まる不幸ごとというのは、じわじわと、いつでもどこでもせまりよってくる。それが世の中というものです。

哲学との出会い

突然、話しはわたし事に変わりますが、わたしは大学で哲学を専攻しました。哲学は、不幸な人のための学問だとある教授は言っていました。人は不幸に出会うと自分にその問いを投げかけます。
「なぜこんな目に合うのか」
「なぜ生活が苦しいのか」
「どこに喜びを見出せば良いのか」
「どう生きたらいいのか」
問いの内容は様々です。

わたしの場合、そんな問いの答えを求め工学系の大学から転学したのです。結果として、哲学はわたしにこの世を見る多くの視点と広さとを与えてくれました。けれども、人が苦しみに生きることへの答えを見出すことはできませんでした。

宗教とは

困り事がこじれてくると人はなぜなぜなぜと自分自身に問いを続けます。やがて、その問いは人のこころに棘を生み出します。思い換えの力がある人は、棘を真綿にもすることもできるでしょう。けれども、気持ちの弱さからその棘が自分自身に向かう人は、自分を卑下したり、極端には自暴自棄に陥ったりします。また、自分を守ろうとその棘を外に向ける人は、ハラスメントや暴力で他人を傷つけかねません。

そんな棘のやり場に翻弄され、こころの弱さにあえぐ人のために祈りがあり宗教があります。宗教とはそんなこころの声を受け止める祈りの場を提供する集まりなのです。

幸せと祈り

経済的に満たされ、好きな物に囲まれた生活に幸せがあるわけではありません。死んでしまえば物は目の前から消えてしまうものです。また祈りとは、自分の欲望を満たすような願い事をするために行うのではありません。自分のこころを苦しめる棘を取ってもらうために神仏に祈るのです。祈ってもこころが楽にならなければ、それは祈る対象が間違っているということです。

まとめ

結局、幸せな人生はこころのあり方に掛かっています。棘のあるこころでは、どんなものに囲まれても幸せは訪れません。幸せとは、たとえ困り事が増えても、変わらない平穏なこころが続いていくことです。

一方で、どんな困った状況にあっても、様々な工夫を駆使して解消または昇華しながら、何とか平穏なこころを保つことが出来る人に宗教はそれほど必要ありません。

宗教とは、思い換える力のない人たちが、幸せに生きていくための療養所であり、そこで得られるこころの平穏は死んでもなくならない財産なのです。

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